「タマシイ」ッテ
〜 「タマシイ」って 〜
夜の間に降った雨は煉瓦に滲み渡り、シズクたちは舞い降りた一葉に向かって「朝だよ」と声をかけました。
自然界ではこうして舞い降りた一葉にも輝きが届けられ、捧げられた命は次の世代を育む力となります。
科学的にはその存在を否定されている(もしくは証明されてはいない)魂と呼ばれるものとは何であるか、
自分なりに考えてみたいと思います。
概念的なものになるとは思うのですが、
それは心の支えとなるものであり、故人を想い自らの心の柱としたいものといった存在であると考えます。
私自身は信仰する宗教を持つ者ではなく、来世があるとは思っていないし、魂というものの存在については、
自分の事ではなく、もう直接会うことのできない方へのありがとうと思ったり、わき出る気持ちのことと理
解しています。
すでに、身近に触れることのできない人や愛犬への想い、すなわち魂とは自分自身から放つものではなく、
どこかで誰かが心の中で気づくことのできる身近に実存した生き物への思いがそういった生き物の持つ、あ
るいは放つ魂ということなのだと思うのです。
来世はないと思っていますが、無になったそのあとは、先に逝ってしまったワンコたちと安らかで平和な日
々を送りたいと思っています。
無の世界には何の思いも存在するはずないにも関わらず、そんなことを思っているのです。
しかしこの思いが矛盾しているとは思ってはいません。
このことに関しては、以下のように思うから、矛盾していそうなのに、実存する思いになっているのだと思
います。
( イメージとして描くとすれば、来世とは何かの生物に生まれ変わってもう一度生かせていただく世界、
あの世とは、死後にこうであればいいなと想像する世界 / どちらも実際には存在するとは思ってはい
ませんが、あると思うことで少なくとも自らが生きている間の繫がりが断たれることなく永遠に向かう
安心や、やすらぎを持つことができるように思います。 心の中でのやすらぎを望むが故の正直な思い
です。)
そして、魂とは決して不幸にかかわる存在ではなく、少なくとも自らの心で確かめることのできる範囲の
幸せを願うために存在する、化学では説明できない思いであり、祈りの存在であると思います。
随分と自分勝手な話と思われるかもしれもしれませんが、自分が窮地の時に、ひとり心に描く自分だけの神
様が現れてくれて、近しいもしくは近しかった方への感謝の気持ちに導いてくれるものが魂と呼べるものだ
と自分なりの理解をさせていただいています。
魂というものは、むしろ、自分自身の思いを完遂しようとするものであってはならないと思えます。
感謝の思いに導くことができたり、導いてもらったり、つらい思いになることのないようにとことこと歩む
様子が魂の姿だと思います。
生きるということは、人それぞれに抱える問題こそ違えど、大変なことに違いないと思います。
人はそれぞれにその人の持てる力の中で懸命に生きています。
私自身、足りない事、気づかない事、力不足な事で、見る角度によっては迷惑をかけていることもあるかと
思っています。
誰もが自らの気持ちを、心のこもったアッタカナまっすぐな目線でしっかりと伝えられなかったときには、
その人にとって、これで良かったといえる思いに至らないこともあると思います。
頑張っていても、もっと頑張れたのではと思うこともあります。
不足するものは必ずと言っていい程に見つかるものです。それがアナログである人間の普通の姿だと思います。
ですから、人である私たちはなおさら、否定に向かう思いよりも理解に努める思いを大切にしなければならな
いと思います。
そして、そっとしておくべきものはそっと静かに、決して触れてはならないものだと思います。
私は自分の事を無神論者だと思っていましたが、宗教とは関係のない自分だけの神様の存在は、自らを勇気
づけるためにも、少しでも自分を役立てるためにも、誰もが思い描いてよい世界だと思います。
そう考えると、自分勝手な有神論者なのかなー、とも思います。