真冬の水仙は凛としている
引き締まって見える
でも、寒さのなか肩寄せ合い、気遣い合っているようにも見える。
学びには、能動的な学びと、受動的な学びがあるように思う。
何かを得んとして突き進む能動的な学びで、社会的地位等の高みを手繰り寄せることは、
時として運よく可能となることもある。
しかしながら、的確な指導者のいない中では、やはりそれなりの者しか育たないのも
残念ながら起こりえるのも現実だろうと僕は思っている。
時の流れの中で、偶然が重なりあい、ひとたび、
上に立つ立場に至ってしまうと、なぜ弱者の気持ちがわからないのだろう。
ここで、わからないのだろうと表現したのは、
わからなくなったということではなくて、そういう時代をひどく経験しないままに
抜擢されてしまったからに他ならないと僕は思っている。
抜擢した側に大方の責任があるのだが、これだけ年月を経て、
弱者の立場を考慮できない者を抜擢したのは、人選側の過ちであり、
抜擢された側の責任ではないであろう。
事実、話すほどに疲れるし、人というもののあり方について時に話すことのある
メンバーにこのことを話すと、自分たちも苦手な人だとのコメントだった。
僕が思うには、少し無茶ぶりな意見かもしれないが、
社会的地位の授与を断る者の中にこそ、心から社会的弱者の立場を
理解している者がいると信じて疑わないからだ。
それは、弱者の心のバランスや、日々大切にしなければならないものの順番に
苦労を費やし良く考えているからだろうと思う。
僕も、世の中が見えなくなっている者の一人かもしれないが、
今日も、一緒に問題ある事例に直面した若者に、おかしいと思うならば、
遠慮なく意見してほしいとお願いした。
これも、自分が見えなくなったりしないための、自分の防衛線の一つである。
受動的な学びを与えてもらえる人は、幸せな人なんだろうなって僕は思っている。
突っ走ると、誰もがかかわるのがしんどくて話をしてくれなくなる。
自らが過ちを犯しているかもしれないという姿勢を持たないスタンスの者は、
いずれ淘汰されるものと僕は思っている。
縦や横に理屈で割ることは、あたかも、正当であるかのように、
評価されるかもしれないし、自然に身に付いた自己防衛手段なのかもしれない。
「凛」という言葉が似合う人は、周囲を気遣うことができる行動がまずあって、
ちゃんと意思の伝達をできない人だっているのだから、そんな人の心をも守るように、
最後まで理屈など決して述べずに、温かく話を聞き、聞き手が攻撃的に感じたりすることもなく、
ゆっくりとした口調で自らの思いをこう思うのですが・・・ というふうに
限定的に語ることなどなく、人を諭すような口調もなく、
互いの思いをより高めようとする力を持ち合わせている。
人は指導され成長するものではない。
月並みを一生懸命に歩む者のあとを追い、自然と大切にするべきものを学び、貢献できる人になるのだと思う。
自らの気遣いそびれた場所を、少しでも、怪しかった場所を、探す感度が鈍らないように努めては、
探し出しては、今日の自らの反省点にしている。
時として、地位や名誉ほど人をダメにするものはないと感じる。
身を引き締め、できることをし、身をふせては尽くし、
今日も多くの人と同じ目線で歩める喜びをありがたき幸せとす。