おぼろ月夜にて候
〜 おぼろ月夜にて候 〜
今夜はおぼろ月夜にて候。
つばめが低く飛ぶと雨。
夕焼けの次の日は晴れ。 ・・・等はよく聞く言葉です。
調べてみると「おぼろ月夜」と呼べるのは、どうやら春に見るぼやけた月のことを言うらしく、それ以外の
季節に使うのは誤りとありました。
一般人の僕には、季節を限定してしまうと、肩ぐるしく? いえいえ、せっかく一年中楽しむように使えて
いた言葉が、今は春じゃないからっていうのは損をした気持ちになってしまうので、我がままなことかもし
れませんが、通年での使用を許して頂きたいと思うのです。
こういった言葉って、自然に「明日の天気は晴れだね」とか、「明日は雨かな」って言いながら「予定はこ
うなんだけど」などとお話しすることが、日常のあいさつのようなものになっていると思うのです。
おぼろ月夜に、おぼろげな記憶を語り、取り戻す遠い日々。
「ありがとう」の気持ちと肩を寄せるように感じる鼓動は一体何のせい?
コオロギが鳴き始めましたね
まだまだ、暑い日は続きますが、お盆を過ぎると背中を焼くお日様は同じでも、肌を撫でる風に季節の歩み
を感じるひと時があります。
言葉にして理由を語る以上に、確かな記憶ははっきりとした感覚で胸に迫ってきます。
「素晴らしい」と感じたことだけを残そうとした気持ちが痛いほどに伝わってきて、盤が擦り切れそうにな
るまで何度も再生した唄があります。
「あの素晴らしい愛をもう一度」 ・・・でも加藤和彦はもういません。
今夜はおぼろ月夜です。
おぼろ気に始まった追想のはずでしたが、懐かしさ以上のものとして、記憶の断片はその地図を広げ、今、
はっきりと瞼のスクリーンに映し出されています。
【おぼろ月】 歌詞
菜の花畠(ばたけ)に 入り日薄れ
見わたす山の端(は) 霞(かすみ)ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて におい淡(あわ)し
里わの火影(ほかげ)も 森の色も
田中の小路(こみち)を たどる人も
蛙(かわず)のなくねも かねの音も
さながら霞(かす)める 朧(おぼろ)月夜
歌詞の意味
目の前には一面に広がる菜の花畑
東から昇ってきた朧月の淡く輝く光は、
家々から漏れる明かりや、森の木々の色、
また、田んぼ道を帰る人だけでなく、
蛙の鳴き声や、お寺の鐘の音に至るまで、
すべてをぼんやりとした幻想的な空間で包んでいる。
夕日の光が薄くなっていゆく
山の端っこ。山の裾。山の麓。
目立つ色が淡くなる=夕方の月がほんのりと色づいている
「夕月」は「三日月」という意味もある
山里の家から漏れる光
家から漏れる光
カエルは鳴き
全てがぼんやり見える
さて、何かに追われる様に毎日を送っている内にも、ふと、ココロの在り方を学んでいるように思います。
同時に歳を取るということは物理化学的に無くすものが増えてゆくことでもあります。
こういったごく自然な時の流れの中で、残されたものに感謝をすることを忘れずに、届けることのできる
ぬくもる思いを届けながら、これからを歩んではいかがですかと・・・
そう想起させられる、ゆったりと、おおらかな「おぼろ月夜」の曲でした。
心得る努力も、想いを柔らかく持とうとすることも、おだやかな明日へのプロローグだと思いました。
加藤和彦の「あの素晴らしい愛をもう一度」 とは随分とかけ離れたところまで話は飛躍しましたが、
彼の声であの歌をもう一度聞きたいと思う人は多いと思います。
人はいろいろな感情を抱きます。
出来たこと、果たせなかったこと、喜んでもらったこと、悲しませてしまったこと、伝えられたこと、
伝えられなかったこともしくは伝わらなかったこと、足りなかった言葉もしくは伝わらなかった謝罪。
ことが足りるのは人の気持ちが落ち着きを取り戻した時だけ。
やはり、人の思いを理解することに努め、できることに尽くすこと。
そうすることでココロは、落ち着いた道を歩むことを許されるのだと思います。