当事者でないとわからない気持ち
〜 当事者でないとわからない気持ち 〜
当事者でないとわからない気持ちがある。
どんなに大変な試練や苦労を抱えたり経験をしたとしても、しているとしても、
仮にその経験が当事者の経験よりも大変なものだと世間が捉えるものであったとしても、
自覚するつらい思いの大小は知るに至らず、内容も、質も、それぞれに異なり、比較するべきものではない。
悪い状態ながらある程度の状態をキープし日常を不便ながらも送られる方もおられれば、
痛みや、不自由の状況が今後も増悪してゆき、日常生活すら立ち行かなくなってゆかれる方もいる。
命の期限を区切られる人もいる。
希望の灯をともすために、持てる力を振り絞る人もいる。
理解に努め、無私の気持ちで向かっても、人の体の調子や気持ちを理解しきることなど、不可能と
いいきれるくらいにあまりにも難しい問題だ。
その人、その人、一人ずつに、体感するものは間違いなく違うものであるはずだ。
しかし対応する側は、解析し、分類し今後の方針を導き、実践するというところに多くは留まる。
いや、そうならざるを得ないというのが現実なのかもしれない。
かといって、それをもって終着点とし、終わりにできるという問題などではないと感じている。
そのような大変難しい領域に、ぬくもりを持って対応をされ、献身的に尽くしておられる方がいる。
その姿勢には、感謝や尊敬の念と共に、全くもって頭が下がるとしか言いようがないものがある。
その心配りを目の当りにするたびに、「寄り添うということが人に残された最も必要とされる道」だというこ
とを感じさせされてならないのです。
どうか、ご自身の体にも心にも気を配られ、無理のない範囲でぬくもりを届け続けていただきたいと思います。
私自身もできる範囲で、その日、その日が、少しでもいい日だったと思っていただけるように、心の宅配便
を届けさせていただきたいと思います。