〜 とっさの言葉は真実を語らない? 〜
「とっさ」という状況とは一体どんな時の事だろう。 ( 以下10行はネットからの引用です )
とっさ(咄嗟)とは、きわめて短い時間のこと。「とっさの出来事であわててしまった」「とっさの機転で
窮地を切り抜けた」などのように、突然わが身にふりかかる瞬時の出来事を言う場合に用いることが多い。
「咄嗟」の「咄」は、もとは人を叱るときに発する声や舌打ちの音、ため息などを意味していたらしい。
「嗟」もため息を意味し、「咄嗟」は本来、命令したりしかりつけたり、驚いたり、舌打ちしたり、ため息を
ついたりする音声(「こらっ」とか「えっ」とか「ちぇっ」とか「あ〜あ」とか、そんな音声だと思います)
を表していた。語源は、サンスクリット語のディッㇰ(dhik)という舌打ちの音を表した語から来ているので
はないかと言われ、そこから舌打ちするくらいの短い時間を言い表すようになったようである。同じくサンス
クリット語発祥の「刹那(せつな)」などと比べると、ずいぶん人間くさい表現であり、仏教伝来とともに伝
えられた語ではあろうが、「刹那」と違ってこちらのほうは、下っ端の僧侶が「ちぇっ、うるせえな、あの師
匠」のようにスラング的なノリで伝えたのではないかと推察する(注:KAGAMI & Co.さんの私見だそうです)
さて、私の抱くとっさのイメージとは・・・
1・突然のことといったイメージ
2・突然の中でも、良くないことに対応するイメージ
3・責め立てられたり、黙秘ではないにしろ、沈黙や静けさを許さず何かの言葉を強要するように責めて窮地
に追いやるイメージ
こういった状況の中では、思考に余地は生まれず、何らかの言葉や反応でその場をやり過ごそうとして、何の
考えもなく、ただつらい時間を埋めるための、在りも、思いもしない「とっさの言葉や反応」が生まれるので
あり、こういったことが、えん罪を誘発してしまうひとつの要因といえるのではないかと思っている。
こういった状況はよくドラマで見る取調室を思い浮かべるが、日常生活の中でも気づかずとも茶飯事のように
起こっています。
心を患っている人、身体を患っている人はそれだけで、先ずは常にとっさの中に居るようなものだと思う必要
があると思います。 実存的苦悩に限らず、不具合な状況を強いられている人にも同じ感覚があると思います。
つまり、そういった人たちは、他人にはやさしく、癒す力、理解しようとつつみ込む力を持っていますが、無
防備で弱い存在であるだけに、私達は細心の注意を払い、心ある対応をする必要があると考えています。
ですから、ご本人にも自分のとった行動について、どうしてなのかを語るまでの正確かつ克明な理解に至らな
いこともあると思います。
衝動的なものであったり、説明のしようのない心情が続けば、当然のように言葉にしきれないことになり、そ
のようなことは当然伝えられるはずもなく、無理に言葉にしようとすれば誤解を招かないかという気持ちのた
めに、結局、何も語れない者もいるということも知る必要があると思います。
また、相手の心理を気遣って話せないことになっているといったケースもあるということも忘れてはならない
ことだと思います。
いかなる問題についても、中には、保身があるのではないかと、一方的にとらえる方もおられるようですが、
語る側にとっては単純な問題ではあり得ず、自らが心からの謝罪の気持ちを語ったとしても、どこまで行って
も充分などと言えるものになることなどは存在しないということを深く胸に刻んでおく必要があります。
そこにあるのは、言葉に変換不能な心が呼吸を続けるためのバランスとでも言えばいいのでしょうか、
強い風の吹く中、綱渡りを決行するようなものであり、バランスという言葉の持つ、二面性、すなわち、調和
するという意味にとるか、AとBのバランスを比べるというような、「比べる」というイメージにとるかといっ
た受け取られ方まで正確に把握することなどできるはずもなく、したがって誤解を招くようなことを避けよう
とする方向に気持ちが向くのはいたし方のないことだと思います。
「とっさ」という言葉から連想される状況について考えてみました。 結果として・・・
1・とっさに出た言葉を真に受ける人もいるが、真に受けてはならない。(すこし時を置いて考えよう)
2・とっさの言葉は真実を語らないことも多い。
3・逆に、対面する相手を守ろうとした言葉であることも多い。
思うに、とっさと思える言葉を耳にしたならば、それは明確な意味のない感情表現の事もあり、その言葉は窮
地に追い込まれている時間を終わりにしようとするものであったり、言葉の選択は的確でないものである事も
多い。 ・・・そう言わざるを得ない事象を含んでいることを忘れてはならないと思います。
いずれにしても、「絶対」という言葉もそうですが、希望的観測に際して使用する時には光をもたらしますが、
ネガティブな感覚を少しでも伴う時には、決めつけや責める気持ちの表出になりかねず、その使用には慎重に
ならないといけないものと感じています。
・・・必要とされているのは、注ぎ続けられる思いであり
私達は、 「ごめんなさい、すみませんでした」 と 「ありがとう」
「おはよう」 に 「お疲れさま」
「お世話になりました」
・・・ といった言葉の中で、不慮のとっさを避けるように生かされているのだと思います。