篠了平(しの りょうへい)公式ブログ!

ぼちぼちと歩き続ける日々

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2022.10.19 Wednesday

知らないままのシルエット

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            〜 知らないままのシルエット 〜

     

     

    穂は見当たりませんが・・・

    ススキでしょうか?

    ・・・わかりません

     

    名前ですか?

    ・・・知りません。

     

    穂はついていたのでしょうか?

    ・・・それもわかりません。

     

    もしそうだったとして、ススキなのでしょうか?

    ・・・もしそうだったとしても、わかりません。

     

     

    ふさふさとした穂のない群生は、穂を持つススキ以上に秋の夜空に延びる質素となって深い輪郭を刻みました。

    群生の向こう側にあるものは、畑でも街でもなく、いつか届けられるはずの心のシルエットです。

    静けさにコオロギの声も揺れているようです。

    秋風と一緒に揺られてみませんか?

    一緒に?  そう、一緒に・・・

    何も知らないままで・・・

    わからないままでいいですから・・・

     

     

     

     

     

     

     

     


    19:10 | こころ | comments(0) | - | - | - |
    2022.10.18 Tuesday

    とっさの言葉は真実を語らない?

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              〜 とっさの言葉は真実を語らない? 〜

       

       

      「とっさ」という状況とは一体どんな時の事だろう。     ( 以下10行はネットからの引用です )

       

       とっさ(咄嗟)とは、きわめて短い時間のこと。「とっさの出来事であわててしまった」「とっさの機転で

      窮地を切り抜けた」などのように、突然わが身にふりかかる瞬時の出来事を言う場合に用いることが多い。

      「咄嗟」の「咄」は、もとは人を叱るときに発する声や舌打ちの音、ため息などを意味していたらしい。

      「嗟」もため息を意味し、「咄嗟」は本来、命令したりしかりつけたり、驚いたり、舌打ちしたり、ため息を

      ついたりする音声(「こらっ」とか「えっ」とか「ちぇっ」とか「あ〜あ」とか、そんな音声だと思います)

      を表していた。語源は、サンスクリット語のディッㇰ(dhik)という舌打ちの音を表した語から来ているので

      はないかと言われ、そこから舌打ちするくらいの短い時間を言い表すようになったようである。同じくサンス

      クリット語発祥の「刹那(せつな)」などと比べると、ずいぶん人間くさい表現であり、仏教伝来とともに伝

      えられた語ではあろうが、「刹那」と違ってこちらのほうは、下っ端の僧侶が「ちぇっ、うるせえな、あの師

      匠」のようにスラング的なノリで伝えたのではないかと推察する(注:KAGAMI & Co.さんの私見だそうです)

       

       

      さて、私の抱くとっさのイメージとは・・・

       

      1・突然のことといったイメージ

      2・突然の中でも、良くないことに対応するイメージ

      3・責め立てられたり、黙秘ではないにしろ、沈黙や静けさを許さず何かの言葉を強要するように責めて窮地

        に追いやるイメージ

       

      こういった状況の中では、思考に余地は生まれず、何らかの言葉や反応でその場をやり過ごそうとして、何の

      考えもなく、ただつらい時間を埋めるための、在りも、思いもしない「とっさの言葉や反応」が生まれるので

      あり、こういったことが、えん罪を誘発してしまうひとつの要因といえるのではないかと思っている。

      こういった状況はよくドラマで見る取調室を思い浮かべるが、日常生活の中でも気づかずとも茶飯事のように

      起こっています。

      心を患っている人、身体を患っている人はそれだけで、先ずは常にとっさの中に居るようなものだと思う必要

      があると思います。 実存的苦悩に限らず、不具合な状況を強いられている人にも同じ感覚があると思います。

      つまり、そういった人たちは、他人にはやさしく、癒す力、理解しようとつつみ込む力を持っていますが、無

      防備で弱い存在であるだけに、私達は細心の注意を払い、心ある対応をする必要があると考えています。

       

      ですから、ご本人にも自分のとった行動について、どうしてなのかを語るまでの正確かつ克明な理解に至らな

      いこともあると思います。 

      衝動的なものであったり、説明のしようのない心情が続けば、当然のように言葉にしきれないことになり、そ

      のようなことは当然伝えられるはずもなく、無理に言葉にしようとすれば誤解を招かないかという気持ちのた

      めに、結局、何も語れない者もいるということも知る必要があると思います。 

      また、相手の心理を気遣って話せないことになっているといったケースもあるということも忘れてはならない

      ことだと思います。

       

      いかなる問題についても、中には、保身があるのではないかと、一方的にとらえる方もおられるようですが、

      語る側にとっては単純な問題ではあり得ず、自らが心からの謝罪の気持ちを語ったとしても、どこまで行って

      も充分などと言えるものになることなどは存在しないということを深く胸に刻んでおく必要があります。

      そこにあるのは、言葉に変換不能な心が呼吸を続けるためのバランスとでも言えばいいのでしょうか、

      強い風の吹く中、綱渡りを決行するようなものであり、バランスという言葉の持つ、二面性、すなわち、調和

      するという意味にとるか、AとBのバランスを比べるというような、「比べる」というイメージにとるかといっ

      た受け取られ方まで正確に把握することなどできるはずもなく、したがって誤解を招くようなことを避けよう

      とする方向に気持ちが向くのはいたし方のないことだと思います。

       

       

      とっさ」という言葉から連想される状況について考えてみました。 結果として・・・

       

      1・とっさに出た言葉を真に受ける人もいるが、真に受けてはならない。(すこし時を置いて考えよう)

      2・とっさの言葉は真実を語らないことも多い。

      3・逆に、対面する相手を守ろうとした言葉であることも多い。

       

      思うに、とっさと思える言葉を耳にしたならば、それは明確な意味のない感情表現の事もあり、その言葉は窮

      地に追い込まれている時間を終わりにしようとするものであったり、言葉の選択は的確でないものである事も

      多い。 ・・・そう言わざるを得ない事象を含んでいることを忘れてはならないと思います。

      いずれにしても、「絶対」という言葉もそうですが、希望的観測に際して使用する時には光をもたらしますが、

      ネガティブな感覚を少しでも伴う時には、決めつけや責める気持ちの表出になりかねず、その使用には慎重に

      ならないといけないものと感じています。

       

       

                     ・・・必要とされているのは、注ぎ続けられる思いであり

       

      私達は、     「ごめんなさい、すみませんでした」 と 「ありがとう」

       

               「おはよう」 に 「お疲れさま」

       

               「お世話になりました」         

                                 

             ・・・ といった言葉の中で、不慮のとっさを避けるように生かされているのだと思います。

       

       

       

       

       

       

       

       


      20:48 | こころ | comments(0) | - | - | - |
      2022.09.19 Monday

      ひだまりの恋しい日には

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                  〜 ひだまりの恋しい日には 〜

         

         

        隣町の商店街。

        立派なアーケイドだ。

        昭和中期の物だろう。

        今や開く店はほとんどなく店主もその多くが高齢者になった。

        さびれることは悪いことなのか?

        復興?

        夢見ること。

        セルロイドの人形。

        ブリキのおもちゃの記憶。

        今、商店街の入り口にあるのは、高齢者用の歩行車や杖を扱うお店だ。

        地域の住民も高齢者が増え、ありがたい存在ではあるだろうがそうそう買い替えるものではない。

        お店を続けているのは、この地のぬくもりの灯を消さないように続けておられるようにさえ思える。

         

        人は少なからず誰かのお世話になってきたろうし、お世話になる時が必ずやってくる、なのに、鼻で

        笑ったり、無視や蔑視など人を貶(おとし)め、傷つける行為がなくならないことには心を痛めます。

        こういった行為はその者自身を貶めている行為であると思っています。

        過去の自らの反省すべき事象の経験も含めて、少しでも柵を取り除くことに力を尽くしたいと思います。

        介護に関する話し合いの場においても、いわゆる勝手つんぼというお話をお聞きします。

        本人が聞き返したくても、相対する者の態度によっては聞き返せなくなってしまう。

        都合の良い話、悪い話などとは関係なく、聴力があっても脳で処理されることなく、内容が素通りしたり、

        理解できているのかどうかが不明であるという事実は確かに存在します。

        こちらの言葉が届いているのか、いないのかを心あるわかりやすい言葉でお話をさせていただき、その

        理解度を確認し、どのようにすれば安心感を持っていただけるかを考える必要があると思います。

         

        聞こえているからと言って、それが何を意味するのか状況を把握できないという現実は間違いなく存在

        し、 ご本人は、どう答え、どう対処してよいかということもわからず困窮もしくは空虚の状態となります。

         

        私達にしても、主語のない話を聞いた時などは、主語の確認を取らないと、話の内容に確信が持てずに

        迷惑をかけるのではないかと思い、聞き直すことがあります。

        その際に、きつい言葉が返って来たり、無視されたと感じてしまうと、おそらく普通の人は、聞き直せなく

        なる思います。

        高齢者や、ご病気や、特にこのような問題にかかわるお薬を呑んでおられる方には、一層の注意を

        払う必要があると感じています。

         

        「どうしてわかってもらえないのか」という思いを抱いても仕方がないのは、今、対面し目の前にいる相

        手方のほうであり、私達や周囲の者が仮にそのような気持ちを抱いたとしても、決して口や態度に出し

        てはらないことです。

        何よりも、あるがままの姿を理解し受け入れようという思いでお話を聞かせていただくことが望まれます。

        問題の解決以上に、解決に向かおうとする気持ちの連携が、孤立する人の気持ちを救います。

         

        変えることができない事象にとらわれずに、今日から先に思いを尽くすことで、幸せの在り処を探す日々

        を歩んでゆければと思います。

         

        狭くてすれ違うことの難しい道であっても、少し引き下がれば、行き交うことも可能になります。

        僕等がいた、あの人も、こんな人もいた、と、心温まる話が、ひだまりの恋しい日にできますように・・・

         

         

         

         

         

         

         

         

         


        17:38 | こころ | comments(0) | - | - | - |
        2022.08.20 Saturday

        動揺するとろくなことがないので、チャックの閉め忘れなどありませんように

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           〜 動揺するとろくなことがないので、チャックの閉め忘れなどありませんように 〜

           

           

          どの言葉が、どの表情が、対面する人の不快な思い、いやな感情を呼び起こす可能性

          があるのか。

          それを考慮しきることは難しい。

          全くはっきりとはわかりませんよ、わかりませんけれども、例えば、未来に対して不安

          を抱く自分であったり、自分の一部分だけを肯定して、ダメであった自分が抜け落ちて

          いたりするということがあれば、そこには気づかないうちに自己擁護の気持ちが住んで

          いたり、落とし物や忘れ物があることに気付かなかったりで、自分ではちゃんと対応し

          ているつもりであっても、人によっては不十分な対応、すなわち謙虚さの欠如や必要な

          (相手の望む)感情の欠けた者としてとらえられ、それが相手の不快感を発生させる可

          能性もあるだろうと考察しているわけです。

          言葉を選ぶことの難しさはこういったことに起因するのだろうと、自分なりには考えて

          はいるのですが、対面する者の心の闇に全く触れないように充分に考えて言葉を選ん

          でも、予期できない関連性を持たれたり、関連性がなくとも、ただもっともだと耳を

          傾けるしか術のないこともあるわけです。

          自分としては言葉が見つからない事は多々あり、「何の役にも立たずに」、いや、この

          言葉自体がむしろ不要である以上に不快を生む言葉なのではと思うこともあこともあ

          り言葉が見あたらなくなってしまい、苦慮した結果、言葉を無くしてゆくわけです。

          こういった場合、おかしいと思われるかもしれませんが、「あきらめる」ということで

          救われていると思う時があります。

          ただし、それは自分自身に対してだけのことです。

          自分以外に向けてできることがある内は、生きる力を与えてもらっていると思えると思

          っています。

          その先は、正直怖いという気持ちを持っているのも事実です。

          そうなった時に、もう誰にも迷惑をかけたくないと思うのも事実です。

           

          どうしてこんな話の流れになったのか、まさに徒然であり迷走であります。

          迷走すら、止めたり、極められそうにもないので、今夜は「おやすみなさい」

          そうそう、動揺するとろくなことがないので、チャックの閉め忘れなどありませんように

           

           

           

           

           

           

           

           

           

                


          01:08 | こころ | comments(0) | - | - | - |
          2022.08.03 Wednesday

          ココロの声

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                     〜 ココロの声 〜

             

            ココロが言葉に代わってお話することになる人がまた一人加わった。

            それは、それは、暑い、暑い、一日だった。  寂しくなるな・・・

            今日からは、記憶に残る笑顔や愛嬌と一緒に、お腹を抱えたり笑ったりしてゆこう。

            かあさんの「さいか」の声が聞こえてくるはずだ。 すると、さっそくの「さいか」の声にココロは大笑い。

             

             

             

             

             

             


            08:27 | こころ | comments(0) | - | - | - |
            2022.07.21 Thursday

            脱、狂走協奏曲

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              JUGEMテーマ:日記・一般

                       〜 脱、狂走協奏曲 〜

               

               

               

              時は太陽によって知らされ、やがて日時計という形になりました。

              時刻は文字盤の上に陽の光が影を落として知らせてくれました。

               

              やがて、機械式時計の時代がやってきてチクタクと時は刻まれるようになりました。

              手をかけないと止まってしまう一秒は、その重みを教えてくれました。

              文字盤の上で時を差し示す時計の針には、その前後にある過去や未来の物語の存在をすら感じさせるものが

              あります。

               

              その先はデジタルの時代が始まることで、時は数字と化し、時はたった今、そう、今現在の時刻だけを表示

              し、過去も未来もない数字だけを届けるようになってしまったのです。

              太陽や地球の自転、すなわち日常を実感する自然との関係を断ち、便利なグッズといった物品となり、人の

              五感にかかわる生活との一体感は薄れてゆきました。

              時代は生活のリズムを知らせる親しい関係から遠のいていった様に思うのです。

              デジタルからITなどを駆使した社会から求められるものは融和に向かうものから、競う(勝ち残りの)管理

              社会へと心の変化を強いられているように映ります。

              自らが示すことを迫られる、単なる数字という見える結果にこだわるように仕向けられているように感じる

              のは間違った感覚ではないと思えてなりません。

              数字には、クオリティというものまでは表出されませんし、今のところ社会から求められることは熟考のな

              されていない形式上の手続きであり、人を守るという観点からするとあまりにも危険をはらんだものに思え

              るのです。

              それが故に、その目標のために躍起になったり、見かけ上の結果に伴う自負という厄介な誤りに気付かずに

              突き進んでしまうことも充分にあり得ます。

               

               

              そういった数字を求められる事象に、他人の人生を巻き込む可能性が含まれているとするならば、より一層

              に、慎重な姿勢が求められ、自分自身への繰り返す問いかけが必要となります。

              社会の求めてくる事の多くは数字であり、人を大切に思うというところは欠けてしまい、含まれていません。

              本当に大切にしなければならないものがあるということ、守らなければならないことがあるとということを、

              社会も個人も気がつかなければ、気がついていても実践されなければ、普通に暮らす者が安心して心やすら

              ぐ時など訪れることは無いように思います。

               

              ですから、一個人としては、ノルマを求めてくる社会や、達成感に惑わされるような世界からは距離を置き、

              できる範囲で、こころが素直に関われるように、やすらぐときを持ち合えたらと思うのです。

               

              それが素直な気持ちです。

              無理や背伸びをすることもありませんから。

              それが喜びでもあるわけですから。

              時は結構なスピードで駆け抜けてゆくものですから。

              人生はそう長くはないものですから。

              誰もがそう思うように、もう、これ以上に心を痛めたりしたくはありませんから。

               

              社会の生む多くの不十分な事象に振りまわされたり、巻き込まれることのないように、時々「しっかりしろ

              自分」と鼓舞したいと思います。

               

              正しいとか、間違ってるとかは、ひとりひとりが考えなければならない事です。

              教育された、何々でなければならないという響きを持って行動することが「道徳」。

              どうすることが対象となる人のベストであるかを実践することが「倫理」。

              そう、倫理というものは自分自身の中に存在し、自らの気づきから成るもので、道徳のように教えられるよ

              うなものではありません。 

              経験したことをもとに育ててゆくものと考えています。

               

              私達は、多くの人のたくさんの思いの中で生かされています。

              そう考えるだけでも、取るべき道について、自分なりに多くの思いが駆け巡ります。

              顧みれば、道徳から答えを導くことは難しく、倫理に答えをゆだねることが多いように思います。

              出会いのあるその度に、心は何を守るべきか、どう向き合うべきかを考えさせられます。

              さて、今日をいい日にできますように。

              ステキな協奏曲が奏でられますように。

               

               

               

               

               

               


              19:59 | こころ | comments(0) | - | - | - |
              2022.07.12 Tuesday

              歩む

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                JUGEMテーマ:日記・一般

                 

                        〜 歩む 〜

                 

                 

                誰だって、「ありがとう」って言ってもらったら嬉しいって僕は思っている。

                自らをチッポケな奴だなと思う時も、やることをすれば、たとえ「ありがとう」の一言を聞けなくても心静か

                に思いを深めると十分な気持ちに至ることを知らされる。

                それに、もし、そこで「ありがとう」の一言が聞こえてきたなら、とんでもない気持ちに飛び上がるに違いな

                い。 世の中にはいろんな人がいて、そういう風な時に、何を思ってかブレーキをかける人もいる。

                でも、思うんだけれど、いろいろとガンバッタ人に対して、それが大きく的を外れたことでないならば、誰も

                否定だけはしないで欲しいと思う。

                努力を無にしかねない否定という残念なことを言う人に対して、多くの人がやりきれない気持ちを抱いても、

                大抵は向き合って言葉にすることはできないない立場の者がほとんどなのだ。

                ガンバッタと思うこと自体が慎みのない思いなのかもしれないが、それでも、人の努力に対して言う必要もな

                い、当たり前だとか、否定するような言葉を突きつけたり、気づかないのかもしれないが無視したりする姿を

                見聞きする方としては良い気がするものではない。

                そのような時、じゃあ、あなたはどうなの、と思いもするが、そのような言葉を突きつける者は自らの感情の

                収まりの落ち付き場がないのかもしれないし、気にするような感覚自体を持ち合わせていないことだって有り

                うることだし、そんなことに振り回されるとこちらも気疲れする。

                だから、それぞれにヒトはヒトだしね、と、とらえるのが自身にとってはいちばんの落ち着き場所でもある。

                時には、へこむこともあるし、自分はまだまだなと思うところは相変わらず多いが、これからも多様な事態に

                惑わされずに、望まれる対応ができるように心掛けたいと思っている。

                人の気持ちや受け取り方については考えても仕方がないことだし、処世術を解く人もいるが、否定語やそれに

                近い言葉を聞かずに済むようにするためには、無視するわけではななく、自分なりに相手を理解しようとする

                気持ちを忘れずに思慮をめぐらすことだけは忘れずに、それでも、自分の力不足を感じる時には、誰にも迷惑

                をかけることのないように自分が一歩下がって静かに対処するべきであり、自分改革のいいチャンスと考えて

                みるのもいいと思う。

                人は変わらない、だからと言って自分自身も大きくは変われないだろうが、気持ちに少しパンツのゴム程度の

                余裕持つことができれば、何かにつけて、気軽になる方に向かえるように思える。

                普通というものの感覚を解さずに歳を重ねることが可能だった人に、私達の感覚での話で理解を求める事自体、

                高く強固な壁があり、無理はしないほうが良いと思っている。

                彼らにとって当たり前のことが、私達の常識とは違う世界にあたり、私達にとって価値のあるものが、今まで

                の彼らの生活形態上、彼らの感性には組み込まれてはいないということが往々にして存在する。

                逆に、彼らは気づいていないことが多いのだが、私達の当たり前もしくは常識というものは、彼らの常識の感

                覚からは外れた位置にある。

                こういったことに対しては過去に何度かアプローチを試みたことがあるが、そういった別世界に生きる人が我

                々の次元の悲しみや喜びや苦労苦心にどれだけ根本から理解できるかという問題は、言葉で説明しても返って

                くる言葉には実感や実存感といったものを伴うものではなかった。

                そこにあるのは別世界であるということを認識すべきは我々の方で、幸せの感じ方も性質も大きく異なるとい

                うことであり、不思議の国のアリスのように二つの別世界がそれぞれにあるという認識を持てば、そう大きな

                苦痛を抱くこともない。

                自分ができる範囲の利他に尽くすことができれば、こころは安らぎへと導かれるものと信じて良いものと思う。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 


                23:51 | こころ | comments(0) | - | - | - |
                2022.04.10 Sunday

                混沌を抜けだそう

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                  JUGEMテーマ:日記・一般

                   

                  本当は何も思わない人などはいないと思っています。

                  しかし、常識を逸脱した反応や、感謝の気持ちが伝わらない人からは、距離を置きたいと思うことがあります。

                  「あの人が何も思っているはずがない」「あの人は何も気になんかするものか」

                  「自分はこんなことをしないとか」

                  そんな言葉が聞こえてきたとき、それが誰に向けた言葉であろうとも、先ずは、自分に向けられてているもの

                  としてとらえるようにしています。

                  自らが招いた言葉ではないか、と、そう思うようにしています。

                  最悪を僕のせいとして考えることで、自らの在り方を問うことができると思うからです。

                  自分自身を否定しているわけではないし、精一杯には努めているつもりではあるけれども、

                  自らの非とは思うことのできない過ちへの想いを抱かされて生きる者の心は、ちょっとした言葉に敏感に揺れる

                  ものです。

                  自らの非はないものと思っていても、心の傷を掘り起こす者の状況とは大きく違うのです。

                  わざわざ、つらい思いに追いやることは、仕向ける方も、仕向けられる方も、実は壊れるものばかリが増え、

                  侵略と防御の戦いと何ら変わらず、無益どころか、疲弊に時間を費やし、心の廃墟がむなしく残るばかりになり

                  ます。

                  弱い自分自身への自己擁護がどれほど働いているのかは、自分自身の心苦しさで測れても、自分の発する言葉

                  がどれほど人を苦しめることになるのかなどは深い苦しみを抱えた者でないとわかるはずがないと思うのです。

                  その上に実存的苦悩を併せ持つようになった今、強い気持ちを持って生きる気持ちがそがれてしまうことが、

                  あまりに多く、こうして思いを吐き出して、息継ぎをしながら生きているのです。

                  それでも、踏ん張り立ち直ろうとする者への言葉とは思えない「わざわざ、人を落とし込むような言葉」を聞く

                  こともあります。

                  何度も言いますが、人は今から先の未来しか歩めないのです。

                  その未来さえも閉ざされかけた中を生きようとする者に対して、心の負担となる言葉をあびせることは、実は

                  自分自身も壊しにかかっていることであるに違いないと思います。

                  「自分の気持ちはどうなる」と吐き捨てた瞬間に、実はストレスは発散されるどころか、それは自爆行為でもあり

                  多くの人を巻き込んだ破壊行為テロと何ら変わらないことになる思います。

                  やりきれない気持ちになった事のある者は、本当の優しい想いがなんであるか、どうしてそのような気持ちが

                  生じてくるものかを知っているはずです。

                  過去は変更不能でどうしようもないことですが、未来はそれぞれの置かれた状況により差異はあれ、構築可能な

                  ことです。

                   

                  種々のいろんな想いに襲われることもあるでしょう。

                  つらくともその点を理解し踏みとどまることが人として望まれることであり、そこで未来に向かうことを忘れ、

                  さかのぼっては不具合な想いや想起を生む思いを口にしてしまえば、大切な人を傷つけるだけでなく、結局自

                  分自身も傷つけてしまうことになる。

                  すなわち自分自身が誰かを傷つけずに済むことで、自分自身を嫌悪する思いに巻き込むこともなくなる。

                  そういった環境を作る努力を、自分のためでもあるし、大切な人のためでもあるから続けたいと思うのです。

                   

                  しかしながら、周囲がどれだけ困ることになっても、気づくことのない類の人もいます。

                  普通の世の中がどのようなものであるかをかを知る必要がないままに、気遣いは受けても、気遣う必要のない

                  まま歳を重ねて、人が負担を強いていることすら気づかない立場で、ずっと一番のまま、いい年になってしま

                  った人たちです。

                  対して、色々と思うことがあったとしても、平穏である今日から先の幸せを願い、ある意味、価値観が近いと

                  いう共通観念をもち、普通に暮らす人達は人としての幸福感というものを備え、大切にしている姿が伝わって

                  きます。

                   

                  冒頭に述べたような、物や立場や達成感に重きを置く人とは、生きる上で生じるいろいろな事象を、同じ意味や

                  価値観で感じて語ることは難しい事であり、そういった人たちは通常一見話を合わせようとしてくる様子が見て

                  取れますが、何か違和感を感じてしまうのも無理のないことで、世界観が違うだけのこととしないと心が疲れし

                  まいます。

                   

                  世の中には自我、それに欲望のために、力ずくで人の人生を曲げ、あざ笑う者もいます。

                  事実、僕のせいじゃない苦悩の始まりを、僕のせいだと思えるはずがないし、思い出すのもつらいから、そん

                  な思いはないものにしたいと思うのは当たり前のことだと思います。

                  しかし、連鎖して生じた悲しみに耐えきれなかったことは自分自身が悪いのだから、責められても仕方がない。

                  そのようなことが僕の非として心の中で居座り続けています。

                   

                  少しでも普通の未来を開こうとして懸命に生きようとしている人の心を誰も踏みつけないで、と願います。

                  僕のわがままになるかもしれませんが、責める言葉に思えたり、ストレスと感じる言葉に聞こえた時には、知ら

                  ない顔をしたり、聞こえていないふりをすることで、自分を守ろうとする姿があるのも事実です。

                   

                  自分自身には全く厳しくできない自分ですが、それでも、自分の意思の許容範囲で大切の順番に従って、できる

                  ことをしてゆきたいと思っています。

                  今日も、ほんのちょっとした笑顔ですが、何人かの方と交わすことができたように思います。

                  どこまで続けることができるのかわかりませんが、あったかな探し物を大切にしてゆきたいと思っています。

                   

                  今日は、やさしい気持ちだけで過ごさせて下さい。

                  これからは、やさしい気持ちだけで過ごさせて下さい。

                  みんなも、どうか、やさしい気持ちだけで過ごしてください。

                   

                  自らに湧き出た思いは、急がないで、ちょっと待って、考えて

                  その言葉はひょっとしたら誰かを苦しめることになるかもしれないから

                  書き換えのできない過去を語るより、少なくとも今とこれからだけをを見つめて

                  そう、前だけを見て、みんなが明るくなるように言葉選びができますように

                  みんながそう思って、言葉選びができますように

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   


                  10:18 | こころ | comments(0) | - | - | - |
                  2022.02.28 Monday

                  ふとした言葉

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                    JUGEMテーマ:日記・一般

                     

                    ふとした言葉に心は動揺し

                    ふとした言葉に心は居場所を無くす

                    ふとした言葉に無言になって

                    ふとした言葉に時がゆき過ぎるのを待つ

                    ふとした言葉は、ため息のように出た言葉なのか、耐えきれずに出た言葉なのか、故意なる言葉なのか、

                    それは発した本人にしかわからないが、言葉した本人にとっても、誰にとっても心痛を覚える言葉はつらい言葉

                    であることに違いない。

                    けっして、誰ひとりとして聞きたくないものに違いない。

                    たくさんの枝分かれした枝の陰に身を潜めたい気持ちにもなる。

                     

                    自分自身を支え切れない程に心が弱っている時には、人に気遣うことは難しいから、心痛となる言葉が聞こえた

                    時には、心を無に近づけ、聞くことを聞き、受け答えは慎重にし、互いの心が和らぐ時をじっと待つ他ない。

                    少なくとも、誰もが、今日から先の未来に、心痛を残さないように注意をしなければならないのは事実であり、

                    それぞれに気遣いあって軌道を修正するためには、少なくとも、先ず自分のできる努力をやり切る以外にない。

                    その姿の大切さに気付いてもらえばその先が少しづつ見えてくるのではないか。

                    逆もまた真なりであり、こちらが心動かされることも確かにある。

                    そのうえで忍耐強く、互いにとってのベストな道、ベストな行動、ベストな言葉に気付き合う他ないと思う。

                    今の自分が正しいと思っていても、今、目の前にいる者の思いもまた正しいということは往々にしてある。

                    それぞれが思い合えるように暖かい気持ちを持つこと、

                    過去は悪くなくても、今は思いやれているか・・・

                    逆に過去は良くなくても、今は充分に尽くせているか・・・

                    苦しみをかかえているだけでは、何一ついい未来は導けない。

                    それぞれに、自らの心の内を検証することで、自分の中に潜むものを静かに自分の中で思ってみるのがいい。

                    自己憐憫に陥ってはならない。

                    ひとつひとつのことはそれぞれに自分を守る為にしていることであり、無駄なことなどではなく、必要とされる

                    大切なことである。

                    そして、そのうえで、もう一度、相手のことも思ってみる。

                    明日に向かうというのは、やはり、今のベストを探し合うことだと思える。

                    過去でも未来でもなく、生きているのは今この瞬間だけなのだから。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     


                    07:58 | こころ | comments(0) | - | - | - |
                    2022.02.27 Sunday

                    鮮やか色の真ん中で

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                      JUGEMテーマ:日記・一般

                       

                      鮮やか色が咲いた。

                      広大な鮮やか色した菜の花畑に一人。

                      風はまだまだ冷たく、ひまわり畑の頃とはまた異なる季節の孤高感に襲われる。

                      しかし、日差しの思いを知る程に、寒々とした風もその光を受け春に向けて輝き始める。

                      背に受けたほんの少しのぬくもりが、お疲れさまと話してくる。

                      出来れば、出来る事ならば、と思う間に、

                      僅かであっても歩を進め、結果より、道筋を語らずとも誇れるようにと・・・

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       


                      07:48 | こころ | comments(0) | - | - | - |

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