清める
〜 清める 〜
水面に小さく波打ちながら光と影は広がって、鮮やか色と枯れた色の想いが浅くに深くに見え隠れ
「愚痴聞き地蔵様」、日暮れまでかかっても聞き切れないお話がたくさんある事もあるでしょう
次は簡潔に話しますから、また聞いてくださいね
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〜 清める 〜
水面に小さく波打ちながら光と影は広がって、鮮やか色と枯れた色の想いが浅くに深くに見え隠れ
「愚痴聞き地蔵様」、日暮れまでかかっても聞き切れないお話がたくさんある事もあるでしょう
次は簡潔に話しますから、また聞いてくださいね
〜 モノクロームの想い 〜
モノクロームとは(1、画面が白黒の写真)とある 退色してゆくことで懐かしく高鳴る想いが集まり始める。
(2、単一の色彩で描くこと)ともある。 とすれば、空の青も、夜の漆黒も、赤一色の濃淡もモノクローム。
そんな中、夢も相変わらず白黒で、主役だけが、かすかに色をまとい、いつまでも華麗に舞い続けている。
懐かしい色や素敵が消えることのないように、モノクロームは過ぎし日の感動をたどる色。・・・永遠の色。
〜 人災 〜
振り返っては、思慮不足であったと思うことは多い。
思わぬ出来事が、自然災害か、人的災害/人災(他人の自我による傷)かによって、心の傷は大きく異なる。
予期して備えて受けた自然災害の被害はあきらめざるを得ないという思いにもなろうが、人災による被害、と
り分け、自我による他傷などは、癒えることのない心の傷を負うことになる。
どうして少し先の未来を、察知することができなかったのか、何の予兆も察知できなかったのかと胸を締め付
けられる思いに苛まれることがある。
何かあるたびに、届いていてくれたらよかったのに どうして、この想いが届いていなかったのかと致命的な
ほど深く沈み込んで考え込むことがある。
悲しみを、回避出来たかもしれないと気づくのは、いつも悲しいことが起こってからだ。
一方で、間に合ってよかったと胸をなでおろした不安から安堵への移行の記憶は脳の本棚の片隅のものとなる。
そもそも、「大切」とは何か。
こういったことは、正しいか間違いかという世界だけでは語り尽くすことなどできるはずもなく、感情、自我
、虚栄などが絡み合うなか、「大切」を守り切るのに必要となるのは、命を懸けて心の宝物とする尊さを守り
切る覚悟と自衛への備えだ。
悪は善の顔をして平気で人を騙して豹変もするし、いい気になる自分というものがあると、傷つけられたり、
騙されたり、取り返しのつかないこと、すなわち純心の宝物を奪われ、破壊され葬られてしまうことになる。
災害というものは、自らの正しいか間違いか、にかかわらず襲いかかってくることを知らねばならない。
厳しい意見かもしれないが、間違っても、自らを正当化などしてはならないし、悔いる気持ちをシッカリと持
って向き合わなければならない。
悔いることなく自らを正当化した時点で、自らのこころが受け入れられる世界は閉ざされる。
もう一つの心が生き残る道は、利他のために生涯を通じて「否」を通し続けることだ。
思いやる気持ちを持ちたいのであれば、利他のためにも、口惜しさと怒りの気持ちの火を消さないことだ。
【 特に、人が関わり発生する人災(他人の自我による傷)にあった時、道は分かれる 】
1・先ずは自分は悪くはないのに(実際悪いことなど全くない人にとって)悲劇が起きるとすれば、相手側の
問題の他は在りません。相手の顔など見ずに済むようにして、相手を見下し、自分の中から排除していい、
いや、すべきです。自分の記憶回路から取り外して、踏みつけて粉々にして破棄焼却処分としてください。
どうしてを問題は起きたのか? それは、問題の発端となった罪人の自我や醜い心に、こころのすきを待
ち伏せされ、見透かされて、気が付けば、時すでに遅しにまで追いつめられてしまったからです。
一方、過ちもなく、ひたすらに、日々に尽くし歩んできた人にとって、なぜこんな目に合うのかの「なぜ」
と問いたくなるのは、自分の中の腹立たしいだけでは済むはずもない気持ちがたどる道であり、そう思うの
は当然の気持ちで、持たない方がおかしいと思えるのです。
あなた(当事者)、の相手が罰せられる事を望む気持ちは、あなたのことを大切に思う周囲の者が望む強い
気持ちとして必ず存在し、しかしながら思い出すたびに当事者であるあなた自身を追い詰め苦しめる事にな
ると気づく周囲の人はどれだけいるだろうか。 おかしいと思われるかもしれないが、そっとしておくべき
ことであろうが、当事者の気持ちを計り知ることができない時(不思議にも、当事者の気持ちが伝わってこ
ない時や共鳴を感じ切ることができない時)には自らの理解が足りないのか、悔いているのかどうかが分か
らなくなってしまい、自らの精一杯は一体何だったのだろうと思うことにもなり、逆に、まっすぐ歩くこと
に努めた日々は何だったのだろうと思うこともある。
自分自身の一番心の底にある気持ちとは、いったい何なのだろうか。
その点にぶれることないように焦点を合わせ、日々過ごせば、決して壊されることなどのない丈夫な裏打ち
に支えられた心と共に、揺るぐことない人生を送ることができるに違いない。 そう考えるようにしている。
2・人に、「こうしてくれればよかったのに」と語る言葉があるとすれば、自責の念を軽減する余地を持つこと
ができるように見えもするが、しかしこの一言は相手の気持ちを見透かし、自分を高くとどめた刹那主義的
な言葉であり、裏返せば自らの非を避けようとする言葉だと思う。思いやりを感じることなく、自分しか見
えていないのに、引き留めようとする思いに、許されないことだが、ひと時のやすらぎめいた引力を感じる
かもしれない。
さらに、謝罪には至ることなどは予見ない言葉であり、純心を取り返す道を外れたものとしか取りようのな
いことが、やりきれなくなるほどに悲しくて仕方がなくなる。
それでも、素直な気持ちを取り戻そうとすれば、こころからの謝罪もできるし、最初の輝きを取り戻せるこ
とはあると思っている。
3・正当化せずにしっかりと悔いる姿を見せることは心からの謝罪にもなり、大切な人のこころを守ることにも
なる。
4・または、心から思う大切の順番に従って自らの内のみに抱え、生涯を通じて大切な人を守り続けることだ。
( ・・・ 今なお、あまりにも未熟な思慮かもしれないが、以上の選択肢はあると考えている。 )
【 結果として、人災(他人の自我による傷)への対処 】
1・自身だけでなく周囲の人についても、本来は無用であるストレスに満ちた袋小路に追い込んでしまう。
自分の心の中の大切とはなんであるかを確かめて、そっとしまっておくという考え方もある。
2・時には思い出されても目をつむり、せめてもの幸せを探して自然の流れに沿って生き、いつか本当の幸せの
形に会えるはず。 いや、心の中では、もうすでに出会えているのかもしれない。
3・向き合うことで力強い世界を築けることと思う。
4・思いやる気持ちが背負う思いに打ち勝つことができると信じて歩むこと。
普段から、実存的苦悩に苛まれる身として、実際に気持ちが折れてしまうことは多々あります。
しかし、誰もが形は違えど苦悩を抱え、タイムリミットを持つ身であることを思えば、誰にとっても貴重な時間
が流れている訳ですから、与えられた世界と時間の中で、苦痛を減ずるように努めながらも、最善を尽くせるこ
とには感謝する他ありません。
どれだけ屈辱的な言葉や、さげすむ言葉に出会おうとも、あなたを心から頼りに思う人は必ずいます。
大切なのは、人生は必ず終わりを迎える時がやってきますから、今から「終わった」などという気持ちを持たな
ないことだと思います。 仮にそう思ったとしても、それは誰の耳に届くものでもあってはならないと思います。
現実に、病(実存的苦悩)と闘う人がその言葉を聞いた時には、よりやり場のない気持ちに陥ることと思います。
そういった人たちは、身の置き場や心のやり場がなくなるまでに追い込まれても、すでに残された力で自らを鼓
舞し、表向きには何事もなかったようにふるまい、すでに終わったという感覚を経験し、それでも強く、ひたむ
きに歩んでいる人たちだからです。
【 人災に対しての救済の術はないのかと思いを巡らせてみる 】
イ)、自らのプライド(もともとあまり持ち合わせていないが)を放棄し、自らの至らなかったところを探して
みる。 見つけることができると自己否定に陥るよりも、むしろ自分自身の改革にエネルギーが使われ、
無用な人に対する思いは減じ、自らを正しいと頑なになることもなく、空中に浮かんで俯瞰するかのよう
なあたたかくフワッとした大きな気持ちに包まれる。
生まれ来た自分、大切の原点に立ち返り、自らのあるべき姿で歩む。
ロ)、感情というココロに住む生き物の動きは気遣い合うことで成り立っている。 触れずとも、そっとそばに
いるよとココロの中で思える感覚だけでいい。 それは何よりも強いなつながりだ。
ハ)、誰も傷つけることのない救済の道は、自らの内に潜む心の力であるにちがいない。
二)、純真を守りたい気持ちがあるのなら、保身などせず、しっかりと聞こえ伝わるところで、憎むべき者を軽
蔑し、嫌悪の限りにののしり、そして愛するべきには口惜しさと自戒の念の限り、それに心からの謝罪と
失くしたくない思いと共に、自分たちでないと感じ得ない永遠の感覚の存在を伝えては胸に刻めばいい。
この先は「ポケットのあったかい」が恋しい季節になってゆきます。
寒くなってゆくのに、こころはあったかく、そして自然とやさしくなり、懐かしさが溢れ出る季節です。
どんな気持ちで始めたブログだったのかすら忘れてしまいましたが、
記事も昨日で、3000件、となりました。
誤ったことを記したこともあるかもしれませんが、
純粋だけが、こころと言葉を正しい道へと導いてくれるように思いました。
先のことは、誰もがそうであるように、全くわかりませんが、
無理をせず、自分なりに偏った気持ちに陥らないように、
自然な想いを記してゆければ、と思っています。
0ct/9. 2022
身近な所で気持ちの回路がショートして破裂した人の感情のとばっちりを食らうのはつらいものがある。
逃げ出したくもなるが、誰かが、その緩衝材にならざるを得ない。
他人事が発端であれ、いつの間にか標的が変わってしまったように、問われたことに応えても、
気に入らないところを探し出しては再びスイッチが入ったように言葉の連射が止まらない。
黙って聞かせてもらっても、それはそれで、収まらない。
知らないうちに、責める対象が置き換わってしまっていることもあるっていうのは世の中よくある話だ。
いわゆる、他人が発端の飛び火とでも言いましょうか。
自分としては、実際にどう応えれば、気持ちを少しでも楽にしてもらえるのか、先ずはそう考えたいところ
なのですが、答えの存在しないことには応えようがなく、困り果てて言葉を無くしてしまうと、同じことの繰
り返しになる。
やはり、現場で出来ることは、ひたすら話を聞くことしかない。
応えられないことは、わからないことなのだから、わからないと言うかもしくは無言になるのはいたし方の
ないことだ。
今から先をより良い日にすることが心の負担を減じることだと思うし、未来志向でやっていかなければなら
ないはずだ。
それどころか、本当は今日という日が、何とか無事だったことに感謝しなければならないと思っている。
こんな話は、健康な人にとっても結構なストレスになると思うし、無いにこしたことはないと思う。
ストレスによって体調を崩す者にとっては、なおさらのことと感じている。
正直思うが、人それぞれの気持ちにもに山あり谷ありで、やはり時の経過を待つ他ないと思い、時が解決し
きれなくとも、あきらめではないのだが、仕方がないなとか、互いに申し訳なかったな、でもありがとうと
いう気持ちもどこかに本当は持ち合わせているはずと信じようとする気持ちがあるから、何とか今日も生き
ているのだと思っている。
人は自らの存在すべき場所は、いろんな損得に左右されるところを意識などせずにやってきても、あまりに
報われなかったり、いいように使われているように感じてしまうと、擦り切れてしまう。
それでも、こころは自らが、こうしないといけないと思ったり、こうしないと気持ちがすっきりしないと思
うところにいるのだから、納得できる行動をとることで救われ、その時の感情に流されないことだ。
感情に流され発した言葉で後になり嫌な思いをするのは自分自身であるというこは間違いのない事実だ。
そう、自分自身が気を付ければいいことだが、ボクシングのレフリーがタイミング悪く殴られてしまうとい
った役回りはいたし方がないのかもしれない。
行き場のない気持ちは、状況は違うだろうが、誰にだってある。
大切なのは自らの存在を無きものとし、ちゃんと相手の心に届くように謝れたかであり、許しの確認も心か
ら感じ取れたかだと思う。
何かうまくいかない事があっても、否定などせずに、せめて「そうか、じゃー・・・」程度の発言で場を和
らげることができるように、自分自身も気を付けなければと教えられているようにも思えた。
逃げ出したいと思う時はあるが、聞こえてくる表面上の言葉には惑わされずに、その言葉を押し出させてい
る背景に注意を払わなければならないのだろう。
改めて、いろいろな思いに向き合うのに、より心しなければならないことを感じさせられた一日だった。
最後に、焦ってはいけない。
どんな思いもどんな言葉も、それが人として間違いのないものであったとしても、人の心の中で吸収される
のには時間を要することは忘れてはならないことだと思います。
自分自身もそうであるように、人の一度思いこんだ気持ちが減じてゆくのは、なだらかな坂道を下ってゆく
ようなものに思えるから。
急ぐと、足がついてゆかずに、転んで、傷口を広げたり、また違う怪我をしてしまうかもしれないと・・・
そう思えるのです。
「お気をつけて」という言葉があるが、きっと、それは何事もありませんように気を付けてお帰り下さいね。
という短くて身近な、「じゃまた今度元気で会いましょうね」と言う互いをねぎらった挨拶なんだろうな。
こんな風に、逃げ出したかったことも「まーるく」声をかけあえたらいいのにね。
JUGEMテーマ:日記・一般
たくさんのシーンが目の前を通り過ぎてゆく。
誰にとっても、どうしようもないくらいにつらい思いはあると思う。
永遠と残り、消えることなどないと思える悲しみもあるだろう。
しかし、徹底的な自己否定で自分自身を壊し切らずに留まっているのは
自分が起点となった悲しみの始まりではなかったからであり、
自分を守る為ではないと言える明確な意識を持って歩んでいるからだ。
これを自己擁護とするか、やむを得ぬ道とするか、
生あるうちに安らぐ思いを抱けるか、たどり着けるか、
それとも、命の終わりを迎えることで無となり楽園に向かうのか、
宇宙の広さと宇宙の持つ時間からすると砂漠の砂の一粒にも至らない、あるかないかもわからない程の存在の自身
が持つ心の宇宙にそんな思いを抱いている。
人の心にやすらいでもらいたいと思うということは、自分以外の世界にかけがえのない大切な場所を感じていると
いうことだ。
安堵に救いは、そういった場所だ。
望まれること、喜んでいただけること、決して悲しみや後悔の残らないこと、後になっても良かったねと思っても
らえる事、そういうことに自分自身も加われればいいなと思う。
「できる」とこころが思うことだけしかできないが、可能な範囲でこのような輪を広げようとしている。
今はそれ自体が安堵であり救いであるのだ。
望まぬことを人為的に強いられ、遂行されると、人は人であることを否定され壊れ去る。
生きている限り、とんでもない不具合な事件に巻き込まれ、生きる意味さえ奪われてしまうこともある。
自分自身が被害者になった時にも、ふとこんな思いになったことがある。
心の中の正直な自分を隠さずに精一杯に謝罪しようと努力する姿を感じ取れるのと、そうは感じ取れないのとでは、
傷の癒えかたが大きく違うことを身をもって感じさせられた。
恐いと思う気持ちや保身とまでは言わずとも見せたくない気持ちがあったり、そこに多くの感情や自我が加わると、
大切なぬくもりを守らないといけなかったという気持ちは届くことなどなくなる。
本当に宝物となる大切な思いを守りたいのであれば、惑わされない強い気持ちををしっかりと持って、相手の負担
になるようなことには一切触れない、近づかないことが間違いなく必要となる。
負い目などというものは、よく聞く言葉ではあるが、それはそれぞれの問題であり、大切にしなければならないもの
から見るといったいどれだけのものに映るのだろうか。
思うに、自身を悔いる自分がいるとしても、深く反省し、大切を守る為に、悔いる自分を消去することくらいのこと
はできないと・・・
誰かの力になれる寄り添いとは、大切にしてきたことを守るとはそのようなものでもあると考える。
僕は何か勘違いをしているのではないか?
常に、そう思う自分がいるのも事実だ。
今も、言葉では説明できないもどかしさを抱えたままの感覚は居座り続けている。
自分自身の思いについてだけではない。
それは、現実を比較したり、それ以上に、感情や幸不幸を比較しようとするかに見える世の中への怒りであったり、
比べるすべもないものを、わかりようのないもの割り切られることへの悲しみに耐えられないからだ。
なんとかして自分を肯定しようとする自分に言葉にしがたい無理を感じては素直に受け入れられない自分がいる。
何か勘違いしていないか?
僕は何か間違ってはいないか?
あまりに未熟で、未完成で、今夜は、ひょっとしたら間違った感性をかかえているかもしれない
JUGEMテーマ:日記・一般
今日からは、やさしい気持ちで過ごして下さい。
これからは、やさしい気持ちで過ごさせて下さい。
みんな、どうか、やさしい気持ちで過ごしてください。
わき出た想いをそそくさに言葉にしてしまうより、
その言葉はひょっとしたら誰かを苦しめることになるかもしれないから、
前だけを見て、明るくなるように言葉選びができますように。
みんながそう思って、言葉選びができますように。
ほんのちょっとした笑顔でしたが、いくつか、今日も交わすことができました。
幸せのひとときでした。
言葉では言い表せない思いが数えきれないほど無限にあります。
なのに、たった一言で、その小さな一言だけで、ちょっとした表情で、人は深い悲しみに包まれることもあります。
前だけを見て、より以上に、気遣うことを忘れずに、今を大切に。
JUGEMテーマ:日記・一般
人はやがていつかの日に、自らのクライシス(壊れる事)について考えなければならない時がやってくる。
気づかないうちに、あれっと思えば、能力の低下を感じながらも慣れ親しむように、ただ歳を重ねて、そうかと
従うことことができるのであれば、それはしあわせなことなのだろう。
しかし、それが、あまりにも突然にやってきた場合には、やり切れるものではなく、想像の範囲にとどまらない。
悲しみは、どこまでも悲しめるだけ悲しんだほうがいい。
やがて、今までの未来に向けた幻想は少しずつ自分から距離を置き、新たな現実に向き合う力となってゆく。
そして、わずかな役立ちを見つけては、感謝の気持ちを、自分自身の命題とすることで、心は再び息を吹き返す。
全ての痛みは自らの至らなさの故のこと。
心は、その安住の地を求めて旅を続ける。
懐かしさには、いつの日にか、やさしさだけを連れてきておくれとお願いだけをして。
(長年お付き合いをさせていただいた近所のおばあちゃんが旅立たれた。
ずっと届け続けていただいた笑顔を忘れません、ありがとうございました。)
JUGEMテーマ:日記・一般
出来ること全て、やり切った。
すべきこと全て、やり切った。
乗り越えようとして、すべてやり切った。
負けたくなくって、やり切った。
残念ながら乗り越えられなかった、それでもやり切ったといえる。
敗北というほかないが、やり切った。
意図をもったゆがんだ心の悪しき暴力の前に僕の心は立ち直ることはなかった。
心の底にある真実のすべてを知り切れば、立ち直ることができていたかもしれない。
だが、長い長い時を戦い続けてきたが、まぎれもなく、とうに心は折れていた、完全な敗北だ。
そして、今、新たな荷を背負って歩いている。
しかし、過去とは大きな違いがある。
今は多くの方に助けていただきながら歩ませていただいている。
心が強くないと自覚する自分にとって、
ダメージは肉体的に厳しいものとなっている。
そこからくる精神のダメージも厳しいものとなっている。
しかし、エゴや人為的につけられた傷と明らかに違うのは、今の僕が感じている苦しみは天災
(運命)によりもたらされたものと理解しうるものだから、仕方がないというあきらめという
ものが存在している。
ココロは体調に大きく影響を受けながら、弱音を吐きながらもできることをしようとしている。
より良いほうを向けと、見えない力に諭されながら動かされている。
暖かい心の支えをいただいて、今の自分は不充分ながらも働かせていただいている。
助けていただいている人の気持ちになんとしても応えられますように。
その人たちの気持ちと共に、訪れられた方の役に立てますように。
今の自らの経験も役立てられますように。
できることすべてをと・・・
JUGEMテーマ:日記・一般
カルマ(宿命) と 因果応報(善悪の因縁に応じて吉凶禍福の果報を受けること)
カルマとは、「過去での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくる」
という因果応報の法則のことだそうだ。
必ず、善行は善行として帰り、悪行は悪行として帰ってくる、と説くと聞くが、であるとするならば
東日本大震災で降りかかったあまりにも無差別な不幸は、いったいどうのようにとらえたらいいもの
なのか僕には全く理解できない。
日々努力し、善行を重ねてきた人たちは、なぜあんな目に合わなければならなかったのか説明のしよ
うがない。
そこに、理由付けをしようとする人もいるかもしれないが、誰が畏怖の念を抱かずにいられようか。
一方、人は絶望の果てに、自らをあきらめたり投げ出したりしない限り、救われることに希望の灯を
灯し続けることで明日に向かおうとする。
僕はそう理解している。
なれば、「以前に悪い行いをした者でも、後に善行によって償うならば、その者はこの世の中を照らす」
というお釈迦様の教えを、素直に解釈するという考えも当然あってしかるべきであると思う。
善行を握りつぶす力が働くことがあるのなら、悪行を善行の積み重ねで償うことができる場合があって
も、ケースによっては許されてもいいのではないかと思うわけだ。
思うに、傷つけられた者の思いが第一に優先され、罪の大きさや許されるものかどうかは被害者の心に
ゆだねられるものであり、最後に後の罪人の心の在り方により罪人の未来はゆだねられるものだと思う。
現実は、社会で構築された理屈の構造にゆだねられることもあるが、僕の中の思いとしては今述べた通
りだ。
心の中で思うことはいろいろとある。それが罪かと問われれば、「人間だもんね」と唱えながら、「罪
だよなー」思う気持ちもあるが、毎日目の前で起こるいろんなことや、それなりに解決し難いと思える
ことを、あーやこーやと考えているとしんどくなるばかりだし、実際にはそれらを投げ出すこと自体が
罪なことに思え、頭を抱える。
何が罪で何が罪でないのか、人もしくは人の心が傷つけることが罪で、それ以外のことは僕にはよくわ
からないが、その点にだけは注意を払うように心掛けているつもりではいる。
罪人が自らをしっかりと過去を省みることができるなら、そしてその罪が、人もしくは人の心を傷つけ
たものではなく、そして、現状に至る事情も理解できることならば、今後の善に結び付く行動によって、
お釈迦様のおっしゃるように、この世を照らす者となって良いものと僕には思える。
しかしながら、人や人の心が傷つけられてしまった場合には、傷つけられた者の思いが第一に優先され、
罪の大きさや許されるものかどうかは被害者の心にゆだねられるものであるという思いは先ほどにも述
べさせてもらったとおりである。ここに付け足す言葉も前述させていただいたことに同じである。
ある本に出合ったときに気付かせてもらったことがある。
受刑者たちに向き合った方の記述だ。
そこにはこうあった。
「彼らは加害者になる前に被害者だった。」
そして、「彼らが幸せであることが再犯を起こさせない大きな条件になる。」 とあった。
なるほどと思わされた。
そうして、自分なりに思うようになったことは、「カルマ」や「因果応報」という言葉は人を戒めたり
脅す効果はあっても、理由はどうであれどん底にある人を救う方向には向かない言葉だと思った。
この事はあくまでも僕の感受性の世界においてはそう感じられるということであり、できれば使用しな
いで済ませたい言葉であるということであり、言葉の存在そのものを否定するものではない。
誰にも、どのような人にも
やはり今を懸命に生きる他ないのだ。
生きるのは過去であるはずがない。
明日を生きることができるわけでなく、明日に何が起こるかもわからない。
だからこそ、今に尽くすことだ。
可能な範囲でいい、その範囲で誰かの役に立てるように生きる。
バランスを取りは難しいが謙虚と自らの小ささの自覚を持って臨めば、たとえ涙しても心は落ち着くだろう。
毎日、そのバランスの中の最善と思える道を探し求めて歩むしかないのだ。
あと一つ、望まれないことには近づいてはいけないということだけは、誰もが胸に刻まねばならないと思う。
パーフェクトな人生などない。
程度や内容の差こそあれ、それぞれに傷つき傷つけながら歳を重ねている。
そんな中、反省すべきことが多かった自分だからこそ、多くを悩み、勉強をさせられ、妥協点を探しながら、
今も、今からも、なんとか修正しながら、ひとり勝手かもしれないがもがき続ける日々である。
考えすぎると出口が見なくなって、心をより病んでしまうから、今の自分で出来る範囲の自分で良しとする
他はないのである。
とにかく今日をガンバロウ。だ。
そうして、静かに時が過ぎてゆくことだけを望み、祈り続けている。
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無意識な時間の中に居たはずなのに、焦燥感に付きまとわれていることがある
そんな思いに追いかけられ始められると思考は止まり、何一つ欲するものなど無くなっていることに気付く
そして、少しでも苦痛が減じると、大したことじゃなくっても、ちょっとした望みごとが姿を現したりもする
そんな時、本当に大切なものは何事もないことだということに気づかされる
でも、「人なんだから」と言いたくなる時には、ココロに少しだけ落書きをしてもいいかなと思う