話の筋のその先は?
〜 話の筋のその先は? 〜
僕は話の筋のその先を読むのが苦手だ。
推理力の低さに問題があるのだろうが、相対する者との間で直接的な確認が取れないと、誰それがこう言っ
ていたという話を鵜吞みにすることへの不安をぬぐいさることはできない。結果、その先のことも語れない。
面倒な話だが、尋ねられても、再度、話の振出し(事の始まり)に戻って、そこから時系列の順に考えてい
ったうえで、可能な範囲の答えだけを導き出す。
たとえば、通常、この先はこうに違いないと思えることも、急な変更を強いられたり、自分自身では思いも
つかない唐突な事象に出会うこともあり、驚かされたこともある。
色々なことがあるだろうが、他人の感情であれ、自分の揺らぎであれ、感情に降りまわされないように努め
たいものだ。
話の筋というものへの理解は、個人個人で確証を得るレベルに到達した時に初めて、それぞれが同じことに
同様の思いで理解をしたといっていいのではないかと思っている。
そして、その時を迎えてはじめて、理解しあった先について語ることができるものと考えている。
僕の覚書のあちこちに下線や矢印が飛び交っているのは、自らの認識の間違いを減じるためだ。
推理力のある者が周囲もわかって当然だと思い込むことは、理解を深め共有することへの障害や軋轢(あつ
れき)になる。
真の理解というものいうものは、相手に望んだり、自分が背伸びをするよりも、互いに謙虚に近づくところ
からはじまる。
良し悪しを語るよりも、咲く花をただ美しいと思え方がいい。
事実、この一枚の写真は、道端で見かけたこんなに小さな花だから、美しさに気づかない人もいるだろう。
見落した人には気づいた人から知らせることで共感が生まれる。
共感が生まれれば、好感が生まれる。
理解も深まる。
この季節、田舎道を歩きながら思い浮かぶ言葉は「稔るほど、首を垂れる稲穂かな」 ・・・かな?
・・・「いそがない」「いそがない」