てんこ盛り過ぎる一週間だった
余りに多忙すぎる1週間が過ぎた。
「日曜日」、母の日、朝からお花屋に花を買いにゆき、お昼には母のところに届けにゆく。
昼からは入院中の父の様子を確認しにゆく。
「月曜日」は人を守るべく奔走するも、無駄走りに終わってしまった。
真意を何とか伝え様とする前に、話を折られ、自らの至らなさには無力感を感じていた。
その後も夜遅くまで仕事で休む暇もなくバタン。
「火曜日」、昼食を摂る暇もなく夕方を迎え、そのまま面談が始まった。
役に立てる自分がいるということは、間違いなく僕の原動力になっている。
「水曜日」、限界を感じながらも、頼まれごとを受ける。
人の挫折感を原動力に転じることが出来るならそこに寄り添うことが出来たら、それは幸せなことだからだ。
「木曜日」、昨日からターちゃんにとって、どうしたら心に残るいい送別会になるのだろうと、
贈る言葉の原稿を、あーでもない、こーでもない、と書いて準備だけはしていた。
大切な場では、言葉を間違うことは許されないからだ。
結果はといえば、ターちゃんの人柄が故、それだけで、すべてがいい感じで会は終了した。
素晴らしい送別会でほっとした。
「金曜日」、体調不良で休養のためもう一人退職するスタッフがいた。
普段から、あまり話すことのない若者で、何の力にもなれなかったことを僕も考えさせられたし、
おそらく彼に関係した者たち全員が、貴重な体験として胸に想うものを持っていることと思う。
良かったのは、彼に対する全員の頑張った感が確認できたことだ。
「土曜日」、午前中にスタッフとの面談、ココロのうちを話していただけることは幸せなことだ。
大切なのは、人となりの大切を守り合うことであり、自分を引くことのできる人こそ、やさしく、
周りの人を前向きに幸せにする力量を持っているということだ。
チカラでねじ伏せるようなことがあれば、何一つ幸せに向かうものなどないのだ。
人の心を理解しようと努めてくれる人、話しにくさのない人、
話した後に虚脱感や無駄だったと思うことのないようにできる人になれればと思う。
そう、結果を他人のせいにせず、ことの成り行きを理解しようと努めることが出来る人になれればと思う。
現場で、確かに自分ももここにいるからと、共に答えを探し出そうと寄り添える奴でいたいと思うのだ。
僕たちはやわらかなココロ達がより良い方向を導くことのできる人間関係を築きたいと思うのだ。
部署の長、会社の長、街の長、国の長、いろんな長がいるが、期待できる人と期待できない人は
自分自身で判断しなければならない。
なぜならば、人は自分自身の人生自体がそう長くもないからだ。
リセットして、ココロ安らぐ道も確かにいい。
与えられた場所での最善でいいと割り切ることが出来れば、それもまた一つの道としていい。
午後3時、僕は同窓会に向かうため僕の住む田舎町を出た。
午後7時、新幹線、地下鉄を乗り継ぎ、繁華街をウロウロとしてから目的地にたどり着いた。
2時間半の短い滞在だったが、昔の仲間に会えてよかったと心から思えた。
急いで帰途についたが、在来線の踏切事故で電車は遅れ、家にたどり着いたのは午前2時近くだった。
余りに多忙な1週間だった。
そして、再び「日曜日」の始まり、
朝7時には、ワンコたちが騒ぎ始め、だるい体に頑張れと声を駆け励ましながら、散歩に連れてゆく。
お昼前まで、エッセイ集の確認作業をして、お昼には母親の顔を覗きに行き、
続いて、父親の様子を覗きに入院先に向かう。
その後は「毎度おおきに食堂」で卵焼きのお昼ご飯をいただく。
帰って、たまらない眠気に襲われ、ぐったりとしたウトウト状態で2時間ほどが過ぎた。
明日からの1週間が普通に過ぎる1週間であることを願うばかりだ。
僕の存在が空気のように気づかれずとも、必要としてもらえる1週間でありますように・・・
出来る事があるというのは幸せなことだと思う。
必要としてもらえる人がいるということも幸せなことだと思う・・・
そして、そのうちのできる事だけをしてゆけばいいと思っている。
写真は夕方に自転車で訪れた隣町の公園の遊歩道から見た緑
子供たちのはしゃぎ声が聞こえる
ようやく時は落ち着きを取り戻しそうだ
( ・・・記事のほうもちょっとだけ休憩します )