今日は宵えびすだった
去年お世話になったお札と熊手に感謝をし、お焚き上げをしてもらった。
さて、今日の議題は、職種の専門性の細分化に目が向きすぎたために生じたデメリットと、それに
対する利他のための行動についてだ。
近頃では、専門分野がさらに細分化され、人間教育の課程のカリキュラムに目が届かなくなったり、
ひょっとして違うんじゃないのないの?ということを「これはそう学んだことですから」と、優秀
な若者が何のためらいもない口調で話すのを聞くことがあった。
クライアントが自らの問題を解決できる糸口すらつかめていなくても、「改善の見込みがない、も
しくは社会生活を送る能力があると判断した場合、受け皿側はその関係を終了する」と教えられた
ということに当てはまるから終了して欲しいとのことだった。
要は、彼らがかかわるところはなく、精神の領域のお世話になってもらいたいという意見であった。
長年現場に携わってきた我々からすると違和感を感じるのだが、彼らにとっては正しいことであり、
問題があるとすれば、そのカリキュラムにあるように思っている。
心の力が弱ったクライアントにに対しては、出来るサポートはするという人としての基本理念を、
省くことなく、学校や教官はしっかりと伝えていただきたい。
どこからも放置されたりすることのないように、前進できるように手を差し伸べ、尽くしながら、
彼らがバトンを渡せるところまで空白を造らないようにしたうえで、バトンタッチしないと、見放
された感覚に陥らないかを危惧するのは、より大切にするべきことだと思う。
出来れば、クライアントの了解が取れる心の状態にまでなった事を確認した上で見送りたいと思う。
専門分野と専門分野の狭間に落ち込み困り果てて我々を訪ねてこられた方への対応として、少々長
い月日を持って取り組めば、身体的には良くはならずとも、精神面だけでも、たとえ僅かでも落ち
着きを取り戻せるのではないかと思ってはいる。
専門分野の狭間に陥ると、世の中からは、誰にも担当するべき対象として全くとらえてもらえない
ということが生じてしまったり、それは仕方がないことだとしても、進むべき方向を見い出すため
に、たとえ結果が出なくても関わりを持って心の支えになろうとすることくらいはできたほうが良
いのではないかと思えてならないのだが・・・
その狭間に落ち込んでしまった方自身が常識を少し逸脱した感じ方、表現の仕方を有していたとし
ても、攻撃性が見られず対話が可能で、私たちの対応不能な状況でなければ、お話をお聞きさせて
いただき、活路を見い出そうとすることくらいはお手伝いさせてもらう方が、自分自身の気持ちも
凪いでゆく様に思える。
人とのかかわりを、人としての状況を考えることをおそらく感じて悩んではいるだろうが、いざ荷
をかかえるかどうかの時点では自らの考えや判断よりも、教育された物理的判断に向かわざるを得
ない若者たち。それがクライアント側にとって助かるものであればよいが、依頼された側が効率よ
くことが進むようなものに思えてならない。
そして、その人としての関わりの切断する際には、立場上自分はできないと述べる。
教えを守っているのだから彼らの立場からすると彼らは間違いなく正しい。
自ら関係を切るということもできない立場だというのも正しい。
だが、最後にクライアントと向き合い、話し合い、全体を広く眺めた最善策を語り合うのは私だ。
私んお思いとすれば、決めごとの遂行よりも自分で考えるということをお願いしたい。
また、こういった問題に対する職員間の相互理解には直接の対話が必要になるので、私自身はその
実践に努めようとしている。
直接顔を合わせて、互いの空気感、全身から放出される心の表情を感じないと、真の信頼を互いに
得ることができないのではないか、という風に思えてならないのだ。
物事や状況、それに人の考えや思いは明らかにどこまでも流動的なものだ。
それに私自身、口にしたことを覚えていないなんてことも当たり前にあり得る。
無責任といえば無責任だが、そういったことについては、忘れてしまったことについても謝罪もす
るし、何て言っていたのか教えて欲しいと、その内容の確認も取らせてもらうようにしている。
まあ、こういったことは歳を取り、自分自身の衰えや、つらさを実感しないとわからないことでは
あると思っている。
ここで問題となるのは、私自身は忘れてしまったりしたことを謝りもするけれども、自分たちの責
任回避、あるいは仕事の簡略化や確実化のためにあまりに細かいところまで決めごとを取り付ける
ことは、自分たちは守られても、自分たち以外のエリアは守られるわけでもなく、職種間の壁を作
る傾向になるということに気付いてくれているのだろうかということだ。
全てを人任せの判断にするのではなく、自分たちで判断できる状況を作り上げることで、現場がス
ムースに動くことは想像できるし、それにより、周囲の部署もスムースに仕事を進めやすくなるだ
ろう。
付け加えておきたいのが、責任回避と記した言葉であるが、これは攻撃性や否定性を持った言葉で
はない。あくまでも自分たちを守る砦を築けば、他の場所に無理が生じる、取り付けた約束を実行
する側も人間であり無理や不足を生じることはあるだろうし、大切なのは自らを守ることよりも相
手を信用し労う気持ちを持つことだと思う。
すなわち、完璧な人など、どこにもいるはずないってことをわかりあうことも必要だということだ。
大切なのは私たちを頼っていただける人に、表立っては見えなくても幸せにしてもらっている自分
たちがいるのだから、そのことを思って、お返しができるようにちゃんと努めている自分たちがい
るかということではないだろうか。
優秀な人達なのに、教育現場の指導すべき点に問題となるところがあって、今、若者達は現場に出
て、教えられたことと、人としてあるべき姿の間で悩み、答えを探そうとに翻弄されているのでは
ないだろうか?
人の持つ考えには、それぞれに理由があって、それぞれの意見や思いは正しいものであるといえる。
そこに私たちを頼ってきていただいている方の立場を許容できる範囲で受け止め、考えて進むのが
我々の務めであると考えている。
その結果が少しでも喜んでいただけるものであったならば、勇気と忍耐を持って進んだ新たな世界
は私達にとっても大切な宝物になるのではないだろうか。
そうして、私達はより進化できるのではないかと思うのです。
物事の許容範囲については、日々の流動的な私たちの意思の疎通や意見の交換が必要になってくる
ものと思っています。
出来れば、若いひと達の許容できる部分と、許容できないと思う部分の選別してゆく過程を知りた
いし、共に考え共に成長できればと思っている。
多くの目の前で起こる問題に迷いがないといえばうそになる。
てきぱきと応えられないこともたくさんある。
それは、もし自分の身に降りかかった事なら、どう思い、どう考え、どうしたいか、どうして欲し
いかを自問自答をするために必要な時間だ。
自分がこれで良かったなどと思えず、ココロ痛むことは数多くある。
私自身は、いただいた考えを頭の片隅において、修正が必要ならば修正を加えながら、自ら今一度
考えながら歩みたいと思う。
今回思ったが、教育、指導する側のカリキュラムには、人の心の部分への関わりや配慮が全く抜け
落ちて、学ぶ側に伝わっていなかった
今後は、そういった状況も踏まえ、クライアントに向けた同じ目線で、若いひと達の問題点、私自
身の問題点、若いひと達の良いところ、私自身の提供できるところを、語り合えればありがたいの
だが・・・