〜 窓際は明るいほうがいい 〜
窓際は明るいほうがいい。
窓際を彩る小鉢の花。
ふと思い出すと若い頃、オレンジは好きな色だった。
元気、明るさ、力強さ、といったバランスがいい感覚でとらえられたのだろう。
しかし、自らの持ち物となると、意外とオレンジ色の物のないことに気付いた。
頑張って思い出そうとしてはみたが、色鉛筆、ラインマーカー、インデックスシールといった日常の事務用品
を除くと、オレンジ色の持ち物は、ひとつしかないことがわかった。
それはひどく落ち込んだ時のことで、あれからもう17年以上も経ったなどとは思いもしなかった。
そのころ、視力低下が急速に進んで、いくつかの眼科と大学病院を次から次へと紹介、紹介となり、両目の手術
を受けることになった。
手術の前に、ちゃんと見えるようになったら、これをもって出かけようと思って買ったナイロン製のメッセンジ
ャーバッグ、それがオレンジ色だった。
きっと、明るい気持ちで、年甲斐もない元気な色のバッグをひっかけてかっ歩したいと思ったのだろう。
今、想えば、良くはなっても、若い頃のような状態になるはずもないのに、考えや感覚も未熟だったのだろう、
勝手に理想を描き、ストライクを外した気持ちの僕は、お世話になった方のことも心中に置くことも忘れて、自
分の気持ちだけに捕らわれてそのバッグを持ち出すことはなかった。
「受け入れる」という気持ちを持つことが、人生を歩む中でいかに必要であったかを、再度認識させられた時で
もあった。
今回、新たな局面に立たされ3年余りの時が過ぎた。 時は流れるばかりで、時には自らを鼓舞し、時には落
ち着かせようとし「受け入れて今日に尽くす」事ぐらいしか思い浮かぶ言葉のない自分が続いている。
綺麗な言葉は、嘘をつくことがあるから、このような言いっぷりになるが、どうせなら、結果がどうであれ、頼
られることは嬉しいし、できる範囲のことだけであれ、尽くせれば、自己満足だとしても、少しでも喜んでもら
えるなら、そんな有難いことはない。 求められる自然な流れの中にいれたらいいな。
言葉の意味や使い方は違うが、2度にわたり自分なりの突然の「人生版窓際族」という感覚を味わったように思
っている。 今回は、終わるまで終わることなく難儀を増す事象だと思うと、前回以上にこたえているのは事実
だが、人生は悪いことばかりではないし、ちょっとした喜びなら探し出したりもできるはずと思っている。
とはいっても、人生というものはいろいろなことが起こるし、仕方のないことであふれているのも事実であり、
厄介に思っていることは、身の破綻を感じさせられる時には、こころまで蝕まれそうになることだ。
仕方のないことと喜びとがいい関係になればいいな、などと思いながら眺める窓際に置かれたオレンジの花。
この花の名は知らないが、素敵だと思え、それをこころが素直に受け止めることができるのであれば、こころは
無事に機能していて、役立てる行動がとれることと思っている。
明るく、居心地の良い、窓際づくりは多くの難しい問題を抱えているが、前を向き続けられるように努めたいと
いう気持ちだけは失わないようにしたい。
無くしたこと、壊れたことの代わりに、いつの間にか、今までわかり得なかったことがわかるようになってきた
様に思う。 そう感じると共に、さらに、人の気持ちの理解を深められればと思っている。
こう思うことも、そう考えることができることも、ちょっとした喜びに思える。
こういった感覚は、決して強い言葉にするようなものではなく、見守りが必要で、道を違えそうな時には、生か
されている訳を考え、幸せが指の間からこぼれ落ちそうなときには、感性に正直でいることだと思う。
この感覚は、やわらかで優しい想いと共にかすかに輝き続けて欲しいと願うべきものと思うからだ。
辛いと思うことは、不幸なことかもしれないが、本質的には幸せなこともたくさん含まれているのではないだろ
うか。 そのような思いを無くさずに、幸せの探し物を続けてゆきたいものだ。
この先の窓際には、やわらかであったかな色の花も加えて置いてゆきたい。
目を閉じると、ラベンダー畑のいい香りが広がった。
理不尽に思うことがあるなら、それは自らの未熟が故の思いであろうし、至らぬものくらいは見い出したい。
うまく生きるということと、曲げられながらも真実を生きようとすることは明らかに異なる。
人生の窓際に坐し、自分にとって、かつての誤った意識がどれだけの過ちを生んだだろう。
人の思いをシッカリと汲めたか。 謝罪に挨拶くらいはちゃんと心をこめてできているか。
と、・・・窓際から回想する自分自身は、役立つことをひとつでも増やせることを願っている。