雨の旧街道
〜 雨の旧街道 〜
旧街道筋、古民家の前、静かな足音と共に水色の傘がゆっくりと横切ってゆく
雨に濡れ、雫をたずさえたモミジ、今、通り過ぎたばかりなのに、どうしてだろう、歩を止め振り返った。
言葉の間に意味を込める昭和の世代にとって、デジタルで埋め尽くされた環境には安らぎは求めがたいようだ。
ぼちぼちと歩き続ける日々
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〜 雨の旧街道 〜
旧街道筋、古民家の前、静かな足音と共に水色の傘がゆっくりと横切ってゆく
雨に濡れ、雫をたずさえたモミジ、今、通り過ぎたばかりなのに、どうしてだろう、歩を止め振り返った。
言葉の間に意味を込める昭和の世代にとって、デジタルで埋め尽くされた環境には安らぎは求めがたいようだ。
〜 コスモスノナミダ 〜
地の近く
首をもたげた群生の
茂みに見つけた雨粒を
乗せた薄紫の美しい
胸揺らし、揺らされ、永遠の
言葉にならぬ波となり
胸締めつける雨の日の
あー、純真の涙かな
〜 雨の日曜日 〜
雨のショッピングモール。 駐輪場の外、水溜りに映った2台のチャリ。
軒下に置かれてはいるものの、濡れたカブとヘルメットにカッパ
とめられた車のフロントガラスに散りばめられた宝石のようにくっついた無数の雨粒。
秋祭りで渋滞した道路に並んだブレーキランプ。
今日は、急ぐ必要のない日曜日。
雨の中、カメラを持って出ました。
もともと僕は雨の日が好きという少々変わった人種でした。
ですが、ふとした想いの心の動きで、やりきれない思いにさらわれます。
乗り越えることが無理なことは、放置する他ない感情として放っておくことしかできません。
今日は幸い、「カミュの異邦人」のように無感情にボーっと過ごすことができました。
これといった何事もない休日は体も心も休めるために助かります。
普段、周囲の方の援助をいただきながら、それなりの山あり谷ありの自分ではあっても、仕事をさせていた
だき、その日その日に尽くせたという気持ちを持てるのは、助けていただいている方々のおかげであり、ま
さに、「おかげさまで」という感謝の言葉が当てはまるように思えます。
ですから、「おかげさまで・・・」
〜 雨の日のおはよう 〜
雨の日の朝、急ぐ足元に光る一枚の枯葉があった。
「行ってらっしゃい」と声をかけてきた。
決して目立ちはしなかったが、雨の中、僕を見送ってくれた。
帰り道には、僕のほうから声をかけてみよう。
「今朝はありがとう」の一言を忘れないように。
そして、今日、一日にあったこと話せるように。
最後に「また明日ね」っていう一言を忘れないようにね。
午後、雨は上がり、吹く風にあたりの光景は乾いた世界へとすっかり様変わりを遂げた。
風に吹かれて飛んでいったのか、帰りに声をかけるはずだった枯葉の姿がない。
かけるはずだった言葉も、もう届くことはない。
行き先を無くした言葉は、虚しく響き、やがてため息となって風の中に消えていった。
届けることができる内に、届けられるものを届ける、できることはできる内に尽くす。
当たり前だと思っていることも、いつどうなってゆくものかもわからない。
後悔が少しでも少なくなるように、できるうちにできることを届けることができますように・・・
人を輝かせたり、あったかな思いにしてくれる気持ちを持っている人に出会うたびにそう思う。
〜 ひとつしかないものばかり 〜
プランターの底の穴から一本だけ生えて顔をのぞかせた雑草。
奇妙だが可愛い命だ。
雨も降り元気を取り戻し頑張ってるな。
今はそう思っているが、土ぼこりがたまると雑草のてんこ盛りになることもあるし、
かと思えば、名もない小さな可愛い花を咲かすこともある。
自然にはいろいろな法則があるが、確かに気まぐれと思えるようなこともおこる。
訳は知る由もないが、そのような中、自然界には多くの生物が生かされている。
人間界では、確率論やA.I.を利用することで社会構造上の勝敗を分けるとまで言われるようになった。
それは良い方向に向かうだけのツールなのか?
使い方によっては何かを脅かすものなのか?
有事の際の防衛手段はあるのか?
色分けに、組み分け、損得に、優劣、それに勝ち負け、それらに分断化や差別化を感じるのはなぜ?
飛び交う情報について行けなくて、もう訳が分からなくなりそうだ。
僕らは生きているが、基本的には生かされているものだと思っている。
人にとって、大切な物は?
幸せは何だ。
不幸せは何だ。
ひとつしかないものは何だ。
右手、右足 左手、左足、 ・・・命、 それにココロもだ。
世界は、宇宙は、ひとつしかないものばかりで成り立っている。
何か訳があって生かされているのだから
「たったひとつ」を思い浮かべて、守ることを忘れないで。
分断化ではなく、「たったひとつ」を守れる普通がいい。
分け合うものは、心から幸せを願う、思いのこもったぬくもりがいい。
〜 雨あがりのシルエット 〜
ひと時の雨はあがり
木陰にはいくつもの光のいたずらが姿を現した。
モノクロームに広がる世界は雫となり、静観の時を巡り始めた。
その時、雫は大きく手を広げ、あたりの空気を吸いつくすかのように光と影を呑み込んだ。
あんなにも大きな世界がこんなにも小さな水滴の中で結像し、その動きの一部始終を映し出している。
光と影だけで描かれる世界は、時を経た心象風景と重なる色合いに思える。
人の手にかかると、多くの深い事象も集約され小さく浅くまとめられることもあれば、曲げられて伝わること
もある。
存在が小さく見えるものほど慎重に接する必要があると思える。
それは持っている光と影も目につきにくい上に、知らず知らずと世の中から遠ざけられているように思えるか
らだ。
人はそれぞれに光と影を持ち合わせ、自らも壊れぬ範囲で、そういった事象にも、向き合い寄り添える存在で
あれたらと思っている。
昨夜からけっこうな勢いで雨が降っている
もうすぐ温帯低気圧に変わるとのことだが台風4号がやってきているらしい
雨のおかげで、ゴミ収集所付近の草抜きがやりやすくなるのは助かる
雑草も成長すると抜くこと自体不可能なくらいにしっかりと根付くからだ
雨で雑草は延びるが、間違いなく抜きやすくなる
間髪入れなきゃ、猛暑にさらされずに抜けるのは有難い
抜いた後は少しふらっとして腰も痛いが、前を通るたびに気持ちがいい
JUGEMテーマ:日記・一般
〜 のんびり行こう(雨の田舎道) 〜
雨の日、国道を渡るには、大抵2度か3度の信号待ちが待ち受けている。
以前は信号待ちなども無かったが、住宅も増え、特に雨の日は交通量が増えた。
信号待ちをするための道にも入れてもらいずらいなという心理が働く。
急いでおられる方もおられるだろうし、
お願いして間に入れてもらうことにも気を遣うからだ。
そんな時は遠くはなるが、ぐるっと迂回して、何事もない気楽に進める道をゆくのがいい。
「いそがば回れ」でもなく、「急がないけれど回れ」でいいと思っている。
色んな車や、普段見ることのない街角の今日を眺めるのも悪くはない。
〜 色あせても、あせないもの 〜
新たな茎をのばし、咲き終えたモッコウバラの葉を伝い、その葉先からシズクが落ちてゆく。
その先にはコビトがいて、そのシズクを受けていた。
それはいつの日のことだったのだろうか。
コビトは歳をとらないけれども随分と時は流れたな、と、
そんな風に思う瞬間があった。
どれだけの月日が流れたかはわからないけれど、その流れの中で、染みついてきたものは必ずあるはず。
その変化した姿すら、年輪、すなわち共に歩んだ日々のように、いとおしく思えるものがある。
なのに、その一方で、その姿を目にして残念に、いや、すまないと思うこともある。
この違いはどう理解すればいいのだろう。
それは、そのものの必要性や魅力によっても違うだろうし、当時の思い入れや、その後の愛着心によって
も違うように思えた。
自在に時を巻き戻して懐かしさに浸ることができるものもあるが、記憶にすら残ることなく忘れられてし
まうものもある。
これはきっと、大切にできる分だけに触れて、その分だけは大切にしなさいっていうことなんだろうな。
でも、大切にしていても、壊れて治せなくなってしまうことだってある。
だから、お世話になったものへの、こころを込めたお別れのために、針供養や筆供養といったものがある
のだろう。
そして、それは感謝と自らの心を鎮めるためのものに思える。
色あせても、あせないもの。
そっと、こころに置いておきたいもの。
大切に。
普段から腰痛や足のしびれはそれなりに存在する
一昨日の朝、アレッと痛みが走ったかと思ったら、立ち上がれない程になってしまった
ここまでひどい痛みは初めてだ
ふと思った
天気予報はあるのに、腰痛予報はない
あれば、「お出かけの際には、お薬とコルセットをお忘れないように」とでもアナウンスをするのだろうか
たまたま週末で良かった
二日間ゆっくりと体を休ませることができた
おかげで椅子から立ち上がるのに分単位でかかることはなくなった
痛いけれども、どうにかなるだろう
さあ、今日を納得のいく日にしなければならない
なんとかできるはずだ
バズ.ライトイヤーなら「宇宙の彼方へ、さあ行くぞ」ってなところか
なんか、いい日に出来そうな気がしてきた