今を生きるということ
〜 今を生きるということ 〜
カルマ(宿命) と 因果応報(善悪の因縁に応じて吉凶禍福の果報を受けること)
カルマとは、「過去での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくる」という
因果応報の法則のことだそうだ。
必ず、善行は善行として帰り、悪行は悪行として帰ってくる、と説くと聞くが、であるとするならば、東日
本大震災で降りかかったあまりにも無差別な不幸は、私には全く理解できない。
多くの善行を重ねてきた人たちが、なぜあんな目に合わなければならなかったのか、説明のしようがない。
そこに、理由付けをしようとする人もいるかもしれないが、誰が畏怖の念を抱かずにいられようか。
一方、人は絶望の果てに、自らをあきらめたり投げ出したりしない限り、救われることに希望の灯を灯し続
けることで明日に向かうことができると、私はそう信じている。
なれば、「以前に悪い行いをした者でも、後に善行によって償うならば、その者はこの世の中を照らす」と
いうお釈迦様の教えを、素直に解釈するという考えも、当然のように、あってしかるべきであると思う。
善行を握りつぶされることがあるのなら、ことの内容にもよるだろうが、悪行を善行の積み重ねで償うこと
が余生の救いとなる道として許されても良いのではないかと思っている。
当然、傷つけられた者の思いが第一に優先されなければならないし、罪は決して許されるものではない。
加えて被害者の心身の完全な回復はまずあり得ず、時に周囲環境の影響から完全な忘却についても難しい。
となると、打ち勝つ強いこころを持てるよう努力を積み重ね、答えを探し出す他ないのだが、自らの宝物を
手放さざるを得ないことも起こり得る。
それほどに、人を傷つけるということの罪は深く残酷なものなのだ。
最後に罪人は、後の罪人その者の心の在り方により、その未来はゆだねられるものだと思うが、こういった
被害者心情を、こころの深くに刻めない者はどこまでいっても救われることなどないと思っている。
現実は、社会で構築された理屈にゆだねられることもあるが、私の中の思いとしては今述べた通りだ。
心の中で思うことはいろいろとある。 それが罪かと問われれば「人間だから」と唱えながら「罪だよな」
と思う気持ちもあるが、毎日、目の前で起こる様々のことや、解決し難いと思えることを、考えているとコ
コロ苦しくなるばかりで、実際にはそれらを投げ出す自分がいることが罪なことに思え、頭を抱えることに
なる。
何が罪で何が罪でないのか、人もしくは人の心を傷つけることが罪で、それ以外のことは僕にはよくわから
ないが、その点にだけは注意を払わなければならないと思っている。
罪人が自らをしっかりと過去を省みることができ、そしてその罪が、人もしくは人の心を傷つけたものでは
なく、現状に至る事情も理解できることならば、今後の善に結び付く行動によって、お釈迦様のおっしゃる
ように、この世を照らす者となって良いものと私には思える。
しかしながら、人や人の心が傷つけられてしまった場合には、罪が許されるものかどうかは被害者の心にゆ
だねられるものであるという思いは、ここに何かを付け足す余地はない。
そう言わざるを得ないのは、仕方がないでは許されるはずもないし、起きてしまった事はあきらめる道しか
ないにしろ、ひとつでも行き場を見い出せるココロが増えて欲しいと思うからだ。
ただでさえ生きることは大変なのに、ウクライナや戦禍の地に早く不幸のない季節がやってきますように。
そう祈って止まない思いがあふれてくる。
戦争や侵略が続く限り、世界中が起きていることを知り続けるために報道を絶やさないでいただきたい。
ある本に出合ったときに気付かせてもらったことがある。
受刑者たちに向き合った方の記述だ。
そこにはこうあった。
「彼らは加害者になる前に被害者だった。」
そして「彼らが幸せであることが再犯を起こさせない大きな条件になる」とあり、なるほどと思わされた。
そうして、自分なりに思うようになったことは、「カルマ」や「因果応報」という言葉は人を戒めたり脅す
効果はあっても、理由はどうであれ、どん底にある人を救う方向には向かない言葉であるということだ。
この事はあくまで私には、そう感じられ、私は使わないというだけのことだ。
誰もが、どのような人も、今を懸命に生きる他ないのだ。
生きるのは過去であるはずがない。
明日を生きることができるわけでなく、明日に何が起こるかもわからない。
だからこそ、今に尽くすということが鍵になる。
可能な範囲でいい、その範囲で誰かの役に立てるように生きる。
すると自身の心が喜び始めるのを感じる。
謙虚さと自らの小ささに自覚を持って臨めば、たとえ涙を強いられても心は落ち着く方向に向かうだろう。
毎日、最善と思える道を探し求めて歩むしかないのだ。
あと一つ、望まれないことには近づいてはいけないということだけは、誰もが胸に刻まねばならないと思う。
パーフェクトな人生などない。
程度や内容の差こそあれ、それぞれに傷つき傷つけながら歳を重ねている。
そんな中、反省すべきことが多かったからこそ、多くを悩み、学び、妥協点を探しながら、なんとか修正に
努め、最善を探すべく、試行錯誤を続ける日々だ。
考えすぎると出口が見なくなり、心を病んでしまうから、今、出来る範囲の事で良しとする他ない。
安息の日々が続きますようにと願い、歩みの果てまで、ぬくもりを感じ合えるようにと思うのです。