懐かしきかな、かの風
〜 懐かしきかな、かの風 〜
子供の頃も、夏は確かに暑かった。
蚊帳の外に蚊取り線香をたき、その中で休んだものだった。
扇風機が送り出す風は心地よく、よく眠れたことも覚えている。
学校にはクーラーなはなく、それが当たり前の時代だった。
何事もおだやかに感じる古き良き時代だった。
今や地球温暖化で気温は上昇し、以前は聞くことのなかった熱中症で倒れる人が後を絶たない。
加えて、高熱で判別の難しいコロナ感染症のために救急の現場はその対応にも苦慮し、脳梗塞や心筋梗塞
など助かる可能性のある一刻を争う命が救われない事例があると聞く。
命にランク付けなどできるはずもない、また不安な気持ちを抱く者の思いにも同じことが言える。
誰もがみんな救われることだけを願い、思いを込めて祈る気持ちになる。
皆が救われ、ひとりでも多くの人の「ありがとう」の声が聞かれる体制の構築を願ってやみません。
思い起こせば、
暑くとも、自然と共にあった遠い季節。
懐かしいあの風、空気を切る羽根の音、視覚に涼を呼ぶリボン。
時がゆっくりと流れていた時代の感覚が蘇ってきた。
外からの言葉に惑わされないように、本当の勝ち負けなんてものが他覚的に存在するはずもないのに、数
字や外見や見栄に惑わされ、その手の内の中で踊らそうとすることを商売の糧とする者までいる。
幸せはどこにある。ひょっとすると、いや、どこにあった、どこかにあるはずでもいい。
誰にも迷惑をかけないように心掛け、気づいた時には、できる範囲のことで、その事象をコツコツと済ませ、
やすらぎと胸を駆け巡る想いを感じた時があったなら、それは幸せな人生だったといっていいものだと思う。
もし自分が、自分以外の他という立ち場、自分以外の他という立ち位置にいる一人であるとしたならば、そ
の他という場所から眺め見て、自らを律することを失することのないようにと喚起したに違いない。
人生などと大層なものを語るには、歳だけを喰いあまりにも未熟な自分ではあるが、自らも自然の一部であ
ることを忘れずに、生けるものにとり、大切にしなければならないものをひとつずつ、自らの手のひらでそ
の強くやわらかな感触を確かめて、ココロが永遠に向かう姿を見届けたい。
風を切る扇風機、その音が、真白き良き時代を呼び覚ましてくれたことに感謝しよう。
羽根に向かって、「ありがとう」と叫べば、
「あああ・・・」「りりり・・・」「ががが・・・」「ととと・・・」「ううう・・・」
・・・って、きっと、「ありがとう」が、何倍にもなって帰ってきてくれることだろう。